アリは人間より5000万年も早くに農業を発明した? 昆虫による驚異のイノベーションを伝える『虫・全史』
地球上で最も繫栄した動物は昆虫である。そんな前提のもと、昆虫の驚くべき生態の数々を紹介した一冊が、7月18日に日経ナショナルジオグラフィックより発売された本書『虫・全史 1000京匹の誕生、進化、繁栄、未来』(熊谷玲美 訳、丸山宗利 日本語版監修)だ。 著者のスティーブ・ニコルズはBBCなどで30年に渡り野生生物の映像制作に携わってきた、トンボに関する博士号も持つ映像作家・昆虫学者である。600頁以上にわたり虫づくしの本書は、虫を主人公としたドキュメンタリー番組数本分、いや何十本分にもなりそうな充実の内容。臨場感あふれる昆虫写真120点と、〈心はいつも昆虫世界にある〉という著者の門外漢にもやさしい親切丁寧な解説によって、虫の世界を体系的に学ぶことができる。 そもそも約4億8000万年前に出現した昆虫は、なぜ最も繁栄したと言えるのか? イントロダクションの「昆虫入門」と第1章「群がる大集団」でその根拠とされているのが、数と多様性だ。個体数は推定1000京匹。地球上に生息する動物の4分の1が甲虫で、10分の1がチョウかガということになる。種類は約110万にも及び、現在目録に掲載されている動物の内、3分の2を昆虫が占めている。 他の動物と比べて優位な点は、それだけではない。今の社会で問題解決の手段として注目される「イノベーション」について、昆虫は大昔から実践・実現し、独自の進化と発展を遂げていった。 昆虫が最初に起こしたイノベーションは、工学的に効率がよく、柔軟性の高いシステムを持つ体への進化である。昆虫は古代の節足動物から進化していく過程で脚の数を減らし、六脚類となって現在に至る(ただし六脚類すべてが昆虫とは限らない)。第2章「起源」で著者は6本という数を、安定性を保ちつつ脚を素早く前に踏み出せる最小限の数であるとしている。ゴキブリの逃げ足がなぜ速いのかといえば、中脚と後脚の4本で走り始めた後、体を浮かせて後脚での2足歩行によるターボブーストモードに切り替えられるからである。エブルネオラオーストラリアハンミョウの全力疾走は、人間が100メートルを0.3秒ちょっとで走るのに相当するという。 昆虫にとって脚は、移動以外にもさまざまな役割を果たす。獲物の捕獲、脚の摩擦で音を奏でてのオスによる求愛、化学物質検出器やシグナルを送る手旗代わりなど、昆虫の特徴別に全11章で構成された本書の中で、目的に応じて6本の脚を器用に使っていることがわかるはずだ。 そしてもう一つ昆虫にとって重要なイノベーションとなったのが、飛翔である。翼を進化させた唯一の節足動物である昆虫は、第4章「昆虫が空を征服するまで」で解説される、既存の空気力学では理解しきれないほどに複雑な構造の翅と飛翔方法を身につけた。たとえばハエの後翅は平均棍と呼ばれ、ジャイロスコープの役割を果たす。飛翔経路の乱れはすぐに修正され、頭の位置が水平に保たれることで、周囲の危険をすぐに察知できる。たかってきたハエを叩き落とそうとしても、簡単に逃げられてしまうわけである。単独ではなく何世代かかけてではあるが、渡り鳥のように長い距離を移動する昆虫も存在する。第5章「世界を超える翅」に登場するヒメアカタテハは、ヨーロッパ北部とアフリカ北西部間の移動で、渡りの距離は1万5000キロメートルにも及ぶという。 そのメカニズムや生態を知ると、〈カの高い羽音やハエのうるさい羽音はあまりにありふれたものかもしれないが、私たちはそれに改めて耳を傾けるべきだ。それは心地よい成功の音色なのだから〉という著者の言葉を、虫好きの突拍子もない意見だなんて軽んじることなどできなくなる。 昆虫のイノベーションの対象は、こうした体の機能だけではない。メスとオスと協力して産卵の準備をしたり、自ら子供の餌となって栄養を与えたり、他の虫にベビーシッターをさせたり。子育てにおける戦略は、社会的な行動の進化にもつながる。中でも高度な発達を遂げたのが、アリやハチ、シロアリである。 オーストラリアに生息するジガバチの一種は、複数のメスで一つの巣を共有し、門番役と給餌役を分業しながら繁殖を行う。シロアリは設計図も現場監督も存在しない状態から、数十万・数百万匹もの労働力で、空調管理もされた巨大なシロアリ塚を作りあげる。アリはなんと、人間より5000万年も早くに農業を始めている。ハキリアリは大型働きアリが植物から新鮮な葉を切り取って巣に持ち帰り、小型働きアリがそれを処理して菌類を栽培する。こうした集団生活の様子を、第10章「女王とコロニーのために」と第11章「超個体」で、詳しく観察することができる。 一方の我々人間はといえば、本書の中で、昆虫のことを顧みない好き勝手な行動が目立つ。殺虫剤の過剰な使用。生息地の環境変化を招く自然破壊。チョウやガは移動中に轢かれて、道路上で無惨な死を遂げることも多々ある。 果たして人類のイノベーションは、地球にとって有益だったのか? 人間のどこに社会性があるのだろうか? と思えてきてしまう。部屋で虫を見かけても潰そうとするのではなく、姿形や動きを観察した後、穏便に外へ戻す。それぐらいの昆虫への興味と社会性は、本書を読んでせめて持っておきたいものだ。
藤井勉