【毎日書評】「孤独な私」を捨て、「『私たち生きもの』の中の私」になれば、目の前はパッと開ける
生きものと地球は手強い
生きものとして見た場合、本来「私」は「私たち」のなかにいる存在だということになります。 日常生活における「私以外」の始まりは家族であり、次いで学校や会社の仲間、地域の人々など、日々なんらかの形でともに過ごす人が「私たち」となります。 そしてそれは、「私たち日本列島に暮らす仲間」という意識、さらには「私たち人類」へと広がっていくもの。人類までを「私たち」と位置づけるのは大げさだと思われるかもしれませんが、それは間違いないわけです。 そして生命誌は、「人間が生きものである」というところから始まるのだそうです。生きものといっても、近くにいるイヌやネコはもちろんのこと、バラの花もウグイスも、ひいてはアフリカのライオンも…と多種多様。それらすべてを含め、「私たち生きもの」だということです。 「『私たち生きもの』の中の私」。この本で提案したいのはこれです。ここから始めて、生きものの一つとして人類があり、私は「私たち人類の中の私」なんだ、その人類の中に日本列島に暮らす仲間があり、私は「私たち日本列島人の中の私」なんだとだんだん下へと降りていきます。(25~26ページより) したがって、「私たち家族のなかの私」のところへ行くまでの道はとても長いことになります。しかし、そうしたかたちで家族を捉えると、日常生活のなかでがんじがらめになっている価値観とは別の見方ができるおもしろさがあるというのです。 私たちという言葉が示すのは、「共感」です。私があり、私と同じ仲間としてのあなたがいる。基本的には同じでありながら、それぞれが個として存在する仲間です。 そのあなたが、時に家族であり、時に生きものたちであるという「共感」です。 共感は、自分を意識し、その自分と同じ存在としての仲間を意識するところに生まれますので、霊長類はもちろん、さまざまな動物にもある感覚です。そのうち最も共感力を高めたのが、ヒトであり、なかでもホモ・サピエンスとされます。(26ページより) そう考えるからこそ、そうやって「私のあり方」をゆっくり考えてほしいのだと著者は述べています。(24ページより)