紫式部が『源氏物語』に脚色して取り入れた「夫・宣孝と死別した経験」
鋭敏な感性で、宮廷生活を活写・清少納言 生没年不詳
随筆文学の古典『枕草子』の作者である清少納言もまた生没年は不詳だが、康保3年(966)頃の生まれと推定する説が知られている。紫式部や和泉式部よりは、やや年上ということになる。 清少納言というのは女房名で、清は姓の清原氏の略だが、少納言の由来は不明。本名もまた不明である。 父は歌人として知られた清原元輔で、清原氏は天武天皇の皇子舎人親王の後裔である。清少納言は天元4年(981)頃に陸奥守橘則光と結婚し、子ももうけるが、夫婦仲はあまりうまくいかなかったらしく、やがて離別する。 正暦4年(993)頃から、一条天皇の中宮だった定子の女房として宮廷に出仕する。定子の父親は藤原道隆で、清少納言が宮廷に入った頃は、定子のライバルとなる道長(道隆の弟)の娘彰子はまだ入内していない。当時は道隆が関白、道隆の子伊周が内大臣で、道隆一族(後年、中関白家と呼ばれる)の全盛期だった。 そんな時代を背景とした、一条天皇と中宮定子を中心としたきらびやかな宮廷社会を、作者の鋭敏な感性によって鮮やかに活写したのが、『枕草子』なのである。 成立期については議論があるが、長保3年頃には大部分が書かれていたとみるのが主流である。約300の章段から成り、それらは「山は......」「すさまじきもの......」といったスタイルで事象を列挙していく「類聚章段」、宮中での見聞を日記風に記した章段、純然たる随想の章段の3つに分類される。いずれにも分類しにくい章段もあり、「春はあけぼの」ではじまる有名な冒頭章段は、類聚と随想の混成とされる。 清少納言自身は跋文で「目に見え心に思ふ事」を書き綴ったと記しているが、宮廷生活の賛美に徹しているのが『枕草子』の第一の特色だろう。定子の気品あふれる美しさ、天皇と定子の仲睦まじさなどが、エピソードをまじえて大仰と思えるほどに描写されている。 このような陽性の描写とは裏腹に、長徳元年の道隆の病死を機に、中関白家の栄光はかげりだし、道長が政権を掌握しはじめる。これに伴って定子の境遇もかげってゆく。 やがて彰子が一条天皇の女御となり、長保2年(1000)には中宮に。定子は皇后にスライドするが、この年の暮れ、内親王を出産してまもなく、25歳の若さで没してしまった。こうした定子たちを襲った悲哀・不運については、『枕草子』は徹底して沈黙している。 清少納言も、中関白家の没落にしたがって定子とのつながりが薄れ、定子の死後には宮仕えを完全に退いたとみられている。和泉式部・紫式部が彰子後宮に入るのは、この後のことだ。 そして、『枕草子』が完成していた頃には、一条・定子夫妻のもとで繰り広げられた華やかな宮廷舞台は完全に過去のものとなっていた。その意味では、『枕草子』とは、定子後宮に捧げる壮大な墓碑銘であった。 その後の清少納言は再婚したらしいが、詳しい消息は不明である。晩年は鬼のような形相の尼僧になって茅屋に住んでいたとする説話が鎌倉時代の『古事談』に載っているが、ここに幾分かの事実が含まれているのだろうか?
古川順弘(文筆家)