「お前が殴ったと他の者が言っている」米兵の十字架を建てた兵曹長は偽りを書いた~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#40
証言前につくられた弁護資料
国立公文書館で見る事ができる資料は、原本をコピーしたものが多い。そのため、字が薄くて読めないものもある。炭床兵曹長の弁護資料と書かれた文書は、コピーをさらにコピーしたようなもので、かなり読みにくい。判読不明の部分があるのをご容赦いただきたい。 日付は、「昭和23年1月8日」とかろうじて読めるくらいだ。炭床兵曹長は、およそ1ヶ月後の2月12日に証言台に立っている。その日は、弁護側から証拠の口述書が提出され、朗読されたあとに、検事の反対尋問に炭床兵曹長が答えている。この弁護資料には、線がひかれたり、省略する部分が示されたりしているので、口述書の下書きではないかと思われる。 〈写真:炭床静男の弁護資料(国立公文書館所蔵)〉 内容は次の通りだ。
自己の意志によって行動せず
起訴状の罪状項目について申し述べます。 1、「共同意志を以て」という部分について私は昭和20年(1945年)4月中旬のある日、正午頃、3人の連合軍飛行士を捕らえた事を知り、同日午後2時頃、防空壕の前で尋問しているのを見ました。同日夕食後、すぐ2人の戦死者の火葬の為、作業員と共に火葬場に行っておりました。午後8時頃、約300メートル離れた野原に灯火があるのに気付いて、1名の作業員をやって調べさせた所、飛行士を処刑するので穴を掘っていると云いましたので、その時初めて飛行士処刑の事を知りました。午後9時過ぎ頃、本部より伝令が来て、「飛行士を処刑するから皆行け」といいましたから、現場に行きました。現場では指揮官、榎本中尉の命令により行動し、又飛行士処刑もいつ決定したかも知りません。故に自己の意志によって行動していません。
憎しみで殴るという気持ちはなく
2、「打擲(だてき)し」という部分について私が現場に着いた時は、2人の飛行士の処刑は終わり、3人目の飛行士は柱に縛られていました。これに近づいて右手で持っていた懐中電灯で飛行士の体を照らして見ると、日本国民兵や補充兵に比べて、立派な体格をしていたので、私は思わず「良い体格だ」と云って我知らず無意識に左手に持っていた物差し棒で、彼の右足、膝(判読不明)のであります。この物差しは、始終私は持っていて(判読不明)木製のものであります。この時の私の気持ちは相手に憎しみとか苦痛を与えようというような気はなく、人を呼ぶ時などに肩を叩くのと同様の気で、殴るという気持ちはありませんでした。この事はその時、私の傍にいた○○、成迫、その他、私の近くにいた者は皆知っていることと思います。 〈写真:3番目に殺害されたロイド兵曹〉