30周年を迎えた「新横浜ラーメン博物館」はノスタルジーで味わい増し増し
日本初の料理評論家、山本益博さんはいま、ラーメンが「美味しい革命」の渦中にあると言います。長らくB級グルメとして愛されてきたラーメンは、ミシュランも認める一流の料理へと変貌を遂げつつあります。新時代に向けて群雄割拠する街のラーメン店を巨匠自らが実食リポートする連載です。 山本益博のラーメン革命!
「ラーメン博物館」トータルプロデューサー相羽さんとの出会い
新横浜の「ラーメン博物館」が今年3月30周年を迎えた。30年前の1994年と言えば、ラーメンが全国区の人気になる直前、私は飲食店のガイドブック「東京・味のグランプリ」やフランス料理店ガイド「グルマン」の出版に一区切りつけた頃で、「味のグランプリ」で取り上げた「すし、そば、てんぷら、うなぎ、とんかつ、ラーメン」という東京の郷土料理への興味は失せてなかったものの、「ラーメン」だけは、豚骨中心に若者向けに味も話題も特化してゆくにつれ、私の視界から次第に遠ざかっていった。 したがって「新横浜ラーメン博物館」へは長らく足を運んだことがなかった。出かけるきっかけとなったのは、今から15年ほど前「新横浜ラーメン博物館」の内装を始めとするトータルプロデュースを手掛けられた相羽高徳さんにお会いしたからである。相羽さんはアートディレクター、空間プロデューサーとして知られた方で、ついこの間まで赤坂にあった「NINJA AKASAKA」の仕事を通じて知り合いになった。
「NINJA AKASAKA」は、入店すると、忍者に案内されながら、迷路を潜り抜けて、席に着く。その忍者の修行の道がアイデア満載の洞窟の中の迷路だった。これをデザインされたのが相羽さんで、親しくさせていただくうちに「ラーメン博物館」も手掛けられたことを知り、それがきっかけで、遅まきながら新横浜まで出かけて行った。
東京タワーが出来る以前の東京を再現したかった
館内に入って驚いた。現代の人気ラーメン店が軒を並べる街並みが、往年の東京下町の再現なのである。 私が小さい頃住んでいた東京・下町にあった駄菓子屋、電話ボックス、ゴミ箱に至るまで、それに映画の看板、どれも懐かしいものばかり、歩みを進めていくうちに天井が夕焼けにかわっていく。まさしく、昭和30年代の下町で、私にとっては「郷愁」そのものだった。