「笑い話にできない話はするな」 西田敏行さんが遺した名言を盟友・武田鉄矢が明かす 「彼の演技には狂気が潜んでいた」
「当時はライバルという意識が」
もちろん西田さんのほうが役者としてうんと先を歩いておられたんだけど、二人とも上り坂の手前にいるという境遇が似ていたこともあったんでしょうね。それで仲良くなった部分もあると思います。以来、西田さんは私のことを「鉄やん」、私は「西やん」と呼ぶようになりました。 だから、いまとなってはおこがましいですが、当時はライバルという意識が強かったですね。西田さんが「西遊記」の猪八戒役で人気が出たかと思えば、私が出演した「3年B組金八先生」が視聴率40%近くまでいった。するとその翌年に西田さんの「池中玄太80キロ」が当たり役になってね。それぞれの主題歌もヒットして、私の「贈る言葉」がなかなか売れたと思っていたら、あちらも「もしもピアノが弾けたなら」が大ヒットで。あの頃はお互いに刺激をし合って、デッドヒートを繰り広げておりましたね。
「金を借りたのが富士銀行なもんで」
一軒家も西田さんのほうが少し先に建てました。割といろんな注文を出したみたいで、それがすごくおかしくて。西田さんの夢は「暖炉」と「ビリヤード台」と「熱帯魚」を家にそろえること。この三つがないと、芸能人の家ではないと。 「新築の夢をかなえておめでとうございます」ってお邪魔したんですが、確かにビリヤード台がありました。でも部屋がちょっと狭かったらしくて、玉を突くキューが後ろに引けないんだと。暖炉も部屋が狭いもんだからすぐに暖まって、暑くて暑くて。床の間に富士山の白黒の写真が飾ってあって、「西田さん、富士山が好きなんですか」って聞いたら、「違うよ、金を借りたのが富士銀行なもんで、早く返せっていう意味で銀行がくれたんだよ」って。もう腹抱えて笑ったのを思い出します。 あと、家の中にバーを作っていて、その名前が「修羅バー」っていう(笑)。これも西田さんらしいネーミングですよね。
ホステスさんがいる店にも奥さんを
家族ぐるみの付き合いもさせていただいたので、互いの家に行ったり、お店で会うときには、いつも西田さんなじみのところに連れて行ってくれました。おいしい店をリストアップしていて、やることなすこときめ細かな人でしたね。 覚えているのは、新宿の店で、チーズフォンデュというのを初めて目にして、どうやって食べるのか戸惑っていたら丁寧に教えてくださったことです。「このパンをですね、串に刺しまして、グツグツ煮えているチーズの中に入れて食べるんですよ」って。 奥さん同士も楽しく酒を飲んでいました。実は、劇団の研究生をしていた西田さんの奥さま、寿子さんは大分出身。うちの妻は熊本で、私は福岡でしょ。九州の血脈ってのは、結構ツーカーなところがあるなと思いました。 奇麗で知的な方で、シェイクスピアとかチェーホフとかを語りそうな。そのくせ豪快で、お酒も割といけたと思います。寿子さんは西田さんの最大の理解者ですよ。 意外というか、面白かったのは、自分が行きつけの酒場であれ、ホステスさんがいる店であれ、 必ず奥さんを一度連れて行くんだって言っていたことです。というのも、例えば帰るのが遅くなるからと奥さんに電話するときに、「ほら、二人で行ったあの店で飲んでんだ」と言うと、奥さんの安心度も高いんだと。