「古代の徴兵制を復活させよ!」…明治新政府が一貫して「神武天皇」にこだわった「驚きの真実」
神武天皇、教育勅語、万世一系、八紘一宇……。私たち日本人は、「戦前の日本」を知る上で重要なこれらの言葉を、どこまで理解できているでしょうか? 【写真】「古代の徴兵制を復活させよ」明治新政府が「神武天皇」にこだわる驚きの真実 右派は「美しい国」だと誇り、左派は「暗黒の時代」として恐れる。さまざまな見方がされる「戦前日本」の本当の姿を理解することは、日本人に必須の教養と言えます。 歴史研究者・辻田真佐憲氏が、「戦前とは何だったのか?」をわかりやすく解説します。 ※本記事は辻田真佐憲『「戦前」の正体』(講談社現代新書、2023年)から抜粋・編集したものです。
徴兵令も「神武天皇からの伝統」
神武創業の時代は曖昧だったので、そのぶんなんでも代入することができた。 明治新政府にとって、神武天皇が使い勝手がよかった理由はそれだけではない。神武天皇がみずから兵を率いて戦う軍事指導者だったことも見逃せない部分だった。 時代は多少前後するが、このような軍人天皇像は、1873(明治6)年1月、徴兵令が施行されるにさきだってさっそく利用された。徴兵は西洋の制度を模倣したものではなく、神武天皇以来の伝統だとされたのである。 前年11月に布告された徴兵告諭をみてみよう。 我朝上古の制、海内挙て兵ならざるはなし。有事の日、天子之が元帥となり丁壮兵役に堪ゆる者を募り、以て不服(ふくせざる)を征す。役を解き家に帰れば、農たり工たり又商賈(しょうこ)たり。固より後世の双刀を帯び武士と称し抗顔坐食(こうがんざしょく)し、甚しきに至ては人を殺し、官其罪を問はざる者の如きに非ず。 日本ではもともと国民皆兵であり、有事のときには天皇が司令官となり、働き盛りの健康な男性が兵役についた。そう述べられている。 これにたいして武士はイレギュラーな存在であり、「抗顔坐食」(驕り顔で働かずに飯を食う)だとずいぶん酷く言われている。
明治維新は「中世キャンセル史観」
神武天皇の名前は、つづく箇所に出てくる。 抑(そもそも)、神武天皇珍彦(うずひこ)を以て葛城の国造(くにのみやつこ)となせしより、爾後(じご)軍団を設け衛士防人(えじさきもり)の制を定め、神亀天平の際に至り六府二鎮の設け始て備る。 珍彦とは、神武天皇が大和へ向かって海路を進むとき水先案内を買って出た神をいう。「徴兵告諭」では、この珍彦を国造にしたことを徴兵制度の始源とみている。 その後、古代に順次軍事制度が整えられたものの、中世になって武士が台頭してすべて台無しにしてしまった。しかるに明治維新になり、神武創業に戻った以上、古代の徴兵制を復活させるのは当然だと続く。 明治維新は、徹底して中世暗黒史観、中世キャンセル史観なのである。 もっとも、このような歴史観がただちに受け入れられたわけではない。徴兵告諭では「西人之を称して血税と云ふ」の部分がもっとも注目された。 徴兵は血の出るような苦労をして納める税金(つまり身命を賭する義務)だという西洋人の暗喩なのに、文字どおり「税金として生き血を取られる」と誤解され、血税一揆の一因となってしまったのだ。 さらに連載記事<戦前の日本は「美しい国」か、それとも「暗黒の時代」か…日本人が意外と知らない「敗戦前の日本」の「ほんとうの真実」>では「戦前の日本」の知られざる真実をわかりやすく解説しています。ぜひご覧ください。
辻田 真佐憲(文筆家・近現代史研究者)