「何者かになるまで帰れない」生き残りをかけた元宝塚・愛華みれの研究科での奮闘「批判は毒ではなく、特効薬だととらえて」
宝塚音楽学校での厳しい日々を経て、花組トップスターへの階段を上っていった愛華みれさん。「錦の御旗を上げるまでは」と奮闘した下積み時代の話について伺いました。(全4回中の2回目) 【写真】のちに「花組色満載」と言われる愛華みれさん 研究生時代の秘蔵写真など(全14枚)
■「このままついていけるのか」日記に綴った苦悩 ── 音楽学校時代はどのような日々でしたか? 愛華さん:大変でしたね。音楽学校時代、成績はあまりよくなかったのに、責任を一手に任されることが多かったんです。寮ではまとめ役の寮委員を務めていましたし、合唱の授業ではアルトの部の責任者を担っていました。
譜面が読めないにもかかわらず、先輩から「森田さん(本名)やってくださる?」と頼まれて。同期からは「大丈夫かしら」と心配もあったと思うんですが、小さいころから大勢の従妹たちをまとめてきた経験が役立ちました。「はい、ここは強く~。そこは弱めて~」と指示は出せるんです(笑)。結果、私たちの学年だけ2年連続で全国合唱コンクール金賞を取ることができました。 音楽学校で2年間過ごし、初舞台を無事に終えて、研究科1年生(以下、研一[けんいち])に。私は負けず嫌いなので周りには弱みを見せられず、何があっても強いと思われていて。だから、誰かが失敗すると私が代表して怒られることもあって、そんなときは「みんな頑張ろう!」と励ますんです。でも、帰宅後は「このまま劇団についていけるのだろうか」と悩みを日記に書くこともありました。そんななか、研一の終わりに突然降って湧いてきた抜擢があったんです。
── どのような役をいただいたのですか? 愛華さん:薩摩藩士の役です。音楽学校の文化祭でもセリフらしいセリフを言ったことがなかったのに、いきなり主役の敵役という大役。膨大なセリフを前に最初は戸惑いました。鹿児島出身で日本舞踊や剣道の経験があったから、そこを見込んでくださったのかもしれません。その期待にどうすれば応えられるのか。周囲との実力差をどうやって埋めていけばいいのか、毎日必死でした。 そんななか、これは風の噂なんですけど「大地真央さんが初舞台を見ていて、右から4番目の子がすごいと褒めていた」と同期に教えてもらったんです。「え、右から4番目って私のこと?」と。私を見つけてくださったことが嬉しくて。それから音楽学校や研一という立場にも関わらずファンの方もついてくださるようになりました。しかし、当時の私はファンの方との距離間に悩むこともあって。そうした悩みがあってもスターの先輩方は遠い存在で相談できないし、近い先輩には「あなたは恵まれているのよ」と言われてしまいそうで。悩みを打ち明けられず悶々としてしまうことがありました。