「偉人」の過去の不正義にどう向き合ったか〈下〉 地域・民衆ジャーナリズム賞 冠を外しただけでは再出発できない
旧優生保護法と同じ
これに対し永田さんは「冠を外すだけでは、むのさんだけが悪いことになる。共同代表が賞自体をやめると決めたのに、実行委員会が賞を存続させるのは許されないこと。何のための共同代表だったのか」と憤る。 告発の手紙を出した田中さんも「実行委員会の見解は、差別発言を差別と受け止めず、むの氏を擁護したいという思いに貫かれている」と批判。実行委員会が当事者の三井絹子さんの話を一度も聞いていないことを問題視し、8月に三井さんを招いて、差別発言問題をどう考えているか聞く集会を開いた。三井さんは車いすで3人の介護者、夫の俊明さんとともに登壇。話すことができないため指で文字盤を示して参加者に語りかけ、電動タイプライターで打ってきた原稿を介護者が読みあげた。 三井さんの人生は、障害者福祉のあり方を根本から問い続けた日々だ。22歳で入った都立府中療育センターでは、男性による入浴介護など人権を無視した処遇の改善を訴えた。都庁前にテントを張り座り込み闘争もした。ボランティアだった俊明さんと結婚して施設を出て、娘を出産。その後も、障害者が地域で暮らすための自立支援や介護保障制度の整備に力を尽くしてきた。79歳のいまも精力的に活動を続けている。 自身の出産について、むのが医療関係者からの批判的な意見も取り上げるべきだと言ったことに対し、絹子さんは「そんなものを聞いていたら、娘はここにいません」と切って捨てる。隣の俊明さんが補足する。初めに診察した医師は中絶をすすめ、後任の医師は後に論文で、妊娠・出産は産科学的に問題なかったが、身の回りのこともできない母親に子育ては不可能で、妊娠・出産の許可は社会的見地に立って考えるべきだ、と書いていた。「障害を持っている人間が子どもを産んでもよいかは社会が決めるというのは、最高裁判決で違憲とされた旧優生保護法での強制手術の考え方と同じ。このような意見を記事に書けということこそ問題ではないか」と俊明さんは言う。 絹子さんは出産当時、こう書きつづった。「自分ができないことを、手伝ってもらうことは、甘えとは思わない。甘えとは、自分でできることを、自分でやらず、人にやらせることである。私は、子供がなんとしても、欲しかった。それを、不自然なように言われた。なぜ、批判する前に、自分におきかえてみてくれないのか。欲しさを!! 産まれたときの、うれしさを!! ごく自然ではないのか。それを、障害が重い、というだけで、押さえられていく。あまりにも、むごいことではないだろうか」(「それでも地域に生きつづける 『障害者』が子どもを産むとき」より)。