「偉人」の過去の不正義にどう向き合ったか〈下〉 地域・民衆ジャーナリズム賞 冠を外しただけでは再出発できない
来なかった返事
むのは松井さんの電話に「障害者がお産をした。生意気だ。それを肩を持つような記事はけしからんといきまいていた人がいた」「聞いたところではウラがあるそうだ。病院の中でも、その女性がわがまま過ぎるといわれていた。その障害者だけが優遇されて、ほかの人が陽の光を浴びないというのでは困る」「物ごとは両面見ないとむずかしいという一つの例として、とりあげた。権力にも大衆にも迎合してはいけないといいたかったのだ」(松井やより「むのたけじ氏に言論の責任を問う」月刊『記録』1981年3月号より)と話したという。 松井さんは北海道新聞労組から講演記録を取り寄せて確認。引用にはいくつか事実と異なる点があり、松井さんはむのがきちんと記事を読まずに看護婦長の話だけ聞いて批判したのではないかと考え、改めて手紙を出す。返事はなかった。北海道新聞労組にも、詳細を確かめて差別発言と認めるならその旨を機関紙で公表するよう要望。しかし同労組からも返事はなかった。 一方、井上さんも録音と記録を確認し、むのに手紙やはがきを出すが、返事は来ない。そこで『婦人民主新聞』(現・『ふぇみん婦人民主新聞』)にこの問題を投稿。それをもとに80年3月28日付で記事が出た。記者がむのに「両面からみるというのならボランティアに携わった人たちの貴重な経験の声も聞くべきで、(看護婦長の)一方的な発言のみとりあげたのは矛盾しないか」と尋ねると、むのは「トータルに物事をみなかった。反省する」と返答。ただし、差別発言ではないかという再三の問いかけには「大かたの北海道新聞労組の人たちに受け入れられ、それを問題にしているのは一人か二人です」と言ったという。 以上が田中さんの資料をもとにしたあらましだ。当時、一部の障害者や女性運動をしている人には知られていたが、大手メディアではまったく報道されなかった。
「当時も今も許されない」
田中さんからの手紙を受け取った共同代表と実行委員会は検討を重ねた。2023年12月、武野大策さんを除く落合恵子、鎌田慧、佐高信、永田浩三の共同代表4人が「むのたけじ地域・民衆ジャーナリズム賞を終了いたします」と題した見解を出す。そこには、むのの発言があった1970年代後半、日本社会には障害者への無理解や偏見が根強く残っており、婦長発言も特別とは言えないが、「むのさんの発言の趣旨は、重度の障害がある女性が子どもを産むことは許されないと言っているように読めてしまうのです」と書かれている。「これは、すでに障害がある当事者の運動があふれていた状況下として、ジャーナリストとしても感覚の鈍さや不勉強を厳しく批判されても仕方がありません」。さらに、発言を問題にした女性たちへの対応についても、向き合っていなかったと指摘した。 「むのさんの発言は、当時も今も許されないことです」。見解はそう断じている。同時に、その発言に注意を払ってこなかった共同代表にも責任があるとして、4人は辞任。「わたしたちの中にある『むのたけじ』を偶像、神格化してきてしまったことも問われた」と述べた。 見解の文案を書いた武蔵大学教授の永田浩三さんは「むのさんは結構マッチョなところや尊大なところがあった。抗議したのが朝日の後輩の松井さんら女性たちでなかったら、対応は違っていたかもしれない。むのさんの業績は確かに立派だが、賞をつくることで私たちがことさら称揚し『ジャーナリストの鑑』としてきたことをやめる以外に道はなかった」と話す。すでに第6回の応募作品が届いていたが、説明とお詫びをして返却するべきだとした。 ところが、そうはならなかった。2024年5月、今度は武内さんら実行委員会が独自の見解を出して関係者や応募者に配布したのだ。そこには共同代表とは異なる解釈が述べられていた。問題になったのは「むのさん自身の発言ではなく、施設婦長の発言の引用・紹介」であり、「むのさん自身が婦長の発言をどのようにとらえていたのか確認する必要がありましたが、井上さん、松井さんの追及は残念ながらそこまでに届かず」「むのさんの真意は不明のまま、松井さんは『むのさんの差別発言』と断じました」としていた。とはいえ説明抜きで婦長発言を紹介したのは差別感情をそのまま流布した形になるとし、「当事者のみなさんに今後も向き合い」「事件の責任を取るため」「故人の名前を冠から外すこととしました」という。 そして、すでに届いていた応募作品は返却せずに自分たちスタッフが選考して「地域・民衆ジャーナリズム賞2024」を授与する。今後は新たに最終選考者を依頼して再スタート。9月に発足集会をして募集を開始する。むのが提唱した「たいまつ精神」も継承していく――。こんな内容を武内さんらが埼玉県庁で記者会見して発表。6月には「地域・民衆ジャーナリズム賞2024」の授与の集いを東京で開き、10の個人と団体を表彰した。