菌を植え継ぎ、絶やさず未来へ ―千年続く和食の根源:種麹(たねこうじ)造りを担う「もやし屋」とは―
扇谷 美果
麹業の同業者組合「麹座」発祥の地とされる京都。この地で300年以上の歴史を誇る老舗の「種麹屋」を訪ねた。先祖代々続く店の歴史と、担ってきた役割、グローバル時代に展開する種麹業について聞いた。
麹は日本の食文化の礎
麹は、蒸した米や麦にカビの一種である麹菌を付けて繁殖させたものだ。菌を付けた相手が米なら米麹、麦なら麦麹と呼ばれる。最も用途が広いのが米麹で、スーパーの漬物コーナーなどで手軽に購入できる。 日本の食文化において、麹は礎だ。和食の味付けに使われる醤油(しょうゆ)、味噌(みそ)、みりんは、いずれも麹による発酵食品である。世界的に見ても豊かな日本の発酵食品文化は、高温多湿という地理的条件に恵まれ、独自の発展を遂げてきた。日本各地に伝わる、郷土色あふれる漬物にも、麹は欠かせない。
種麹屋という仕事
日本酒の酒蔵や味噌蔵、醤油の醸造所、大手の漬物メーカーの中には、麹を自前で造る会社もある。しかし、麹は自社で造れるとしても、米や麦に付着させる麹菌は、もともとどこからきたのか。企業はどのようにして麹の品質を安定させ、長年それを維持しているのか。その答えは、全国でも数少ない「種麹屋」という仕事にあった。 「昭和28(1953)年くらいの同業者名簿によれば、当時は30数軒ほどあったようですが…今は全国で10軒ほどに減り、京都に残っているのはうちだけになりました」と、古い資料を示すのは、種麹屋の老舗「菱六もやし」の代表を務める助野彰彦さん。 「もやし」というのは、ひょろりと細長い豆モヤシと勘違いされがちだが、もちろん野菜のことではない。とはいえ、「萌(も)やす」=「芽を出させる」という意味なので、語源はモヤシと同じなのがおもしろい。 良質な麹菌の胞子を発芽させ、好条件下において培養し、蔵や醸造所が麹造りにすぐに使えるよう加工する。そして、これを「麹の種菌」として販売するのが、助野さんの仕事だ。
種麹業に歴史あり
日本人が麹菌を酒造りに活用した歴史は古く、8世紀初めの書物には、神様に供えたご飯(蒸し米)に生えたカビを利用して酒を醸した、という記述が見られる。 また、平安時代中期に編纂され927年に完成した法令集「延喜式(えんぎしき)」には、「よねのもやし」といった記載がある。これは、「米にもやもやとカビが生えた状態」、つまり米麹を指す。当時は「友種式(ともだねしき)」といって、造った米麹の一部を次回の米麹の種として使い回す方法が取られていたが、それでも一定の品質は保っていたようだ。 鎌倉時代から室町時代にかけての京都では、北野天満宮の権威の下、麹造りを生業にする同業者組合「北野麹座」が結成され、近隣地域における麹の製造・販売権を独占していた。しかし次第に、一部の富裕な酒屋が自前で麹造りに取り組み始めるようになる。 麹座は当然、これに強く反発。北野天満宮とともに、酒屋への統制を強化するよう、幕府に働きかけた。 ところが、有力寺社の一つである延暦寺が酒屋側に付いたことから、複雑な利害関係が絡み、さらなる対立に発展。数度の武力衝突の末、1444年、麹座が酒屋側に屈服する形で幕引きとなった。 「文安の麹騒動」と呼ばれるこの事件以降、専門職としての麹製造業は衰退。麹造りは商品製造工程の一環として、酒蔵や味噌蔵など醸造所側に取り込まれていく。そうした流れの中で、「麹を造って売るだけでは生き残れない」と考えた一部の麹屋が、良質な麹菌を育てて醸造所に卸す「もやし屋」としての道を切り拓いたのだろう、と助野さんは語る。 「うちも、京都で昔からやっていますが、創業年はよく分かっていないのです。正直なところ、私が何代目の当主なのかも分かりません。これは、同業のもやし屋さんが1769年に書き残した『蘗法傳書(もやしほうでんしょ)』という書物の写しなのですが、ここに“菱六もやし”と書かれていることから、少なくともこの頃にはもやし屋を営んでいました。おそらく、300年以上は続いているのではないでしょうか。」