「団塊的・昭和的・高度成長期的」思考からの転換期 「人生の分散型」社会に向かうビジョンと方向性
しかしこれに加えて、団塊世代の生きた高度成長期においては、それが強い“上昇”のベクトルと結びついたため、集団の凝集力あるいは排他性を強める「垂直軸」がきわめて強固なものとなり、「水平軸」つまり集団の外部への配慮や関心は大きく減退した(しかも集団のソトの人々は“競争相手”として潜在的な敵対性とともに認知された)と考えられるのである。 同時に、希望ないし期待を込めて言えば、ここ数年、こうした「ウチーソト」の強い区別という行動パターンは、若い世代に向かうほどかなり変化していると私は感じている。
ささやかな一例として、新幹線で自分の席を後ろに倒す際に「下げてもいいですか」と声をかける人が増えているという点を、拙著『科学と資本主義の未来』のあとがきに記したのだが――ちなみに私はこの8年ほどほぼ毎週のように新幹線で京都と東京を往復している――、この例に限らず、たとえば、 ●順番を待ったりするときに“われ先に”的な行動をとらず、場合によっては相手に譲る ●ドアを開けて通る際に、後に続く人のためにドアを支えて待つ
●ちょっとしたことで見知らぬ他者とコミュニケーションをとる といった、ささいな日常の中での「見知らぬ者」同士の「水平的」なコミュニケーションが以前よりも広がっていると感じられる(逆に、団塊世代的な“先を争う”ような行動が明らかに減っている)。 実は以上のような例は、2009年に出した拙著『コミュニティを問いなおす』の中で、「ヨーロッパなど海外に比べて日本においては見知らぬ者同士のコミュニケーションが非常に少ない」という事例として挙げた類のものだったが、ここ数年、そうした傾向が徐々に変わる兆しを見せている。
一見小さなことであれ、人々のこうした行動パターンが徐々に変化し、先述の「都市型コミュニティ」的な関係性が少しずつ広がり始めていることに私は期待したい。それは最終的には、人々の相互の信頼に関わる「ソーシャル・キャピタル(社会関係資本)」や「公共性」といったテーマにもつながっていくだろう。ちなみに以上のような「変化」を強く意識するのは、私が“新人類”という、団塊ないしその上の世代と若い世代の「はざま」に位置するポジションにあるからだと思われる。