インドネシアで影絵芝居になった桃太郎(後編)
面倒くささを乗り越えて感じる一体感
多様性の確保というのは、それぞれの人間が人生をかけた真剣勝負である。それは決して楽なことではない。自分とは違う存在との対話やコミュニケーションは正直面倒である。ストレスになるし、時間がかかることもある。時には、自分の価値観や存在を脅かすようにすら思うこともある。しかし、こうしたプロセスを経てこそ人間性は磨かれると思う。筆者の考える日本社会の課題は、こうした「面倒くさい」作業の手間を惜しみ、お互いの本質的な違いの部分の議論を避け、物わかりの良い大人のふりをして、心は未成熟のまま成長していないことに起因しているように思える。 あくまで独自の定義ではあるが、筆者は、自分と異質なものに出会う状況を「グローバル」、異質なものと距離を取り同質なもの同士で完結する状況を「ローカル」と認識している。外国で仕事をしていても、日本人同士でつるんでゴルフばかり行っていればローカルだし、逆に、日本人だけのコミュニティでも違った考えを纏めながら進めていく姿は十分にグローバルだ。当然、どちらが良いというわけではなく、両方のバランスが大事だと思う。安心を感じられる内輪の仲間も大事だし、馴染みのない人とうまく付き合うのも大事だ。 これから日本社会は様々な違いと遭遇しながら、ますます「グローバル化」していくだろう。言語・人種・宗教といったわかりやすい違いだけでなく、考え方や価値観の違い、性別や世代の違い、他にもたくさんの違いが、「多様性の時代」には急増していく。その時、違いを正面から受け止めて、受け入れることができるのか。社会だけでなく各個人の器が試されるが、「イツメン」とばかりつるんでいては、残念ながらそうした器は磨かれない。 もちろんこれは日本だけの問題ではない。様々な人種が集まる米国ですら、肌の色が違うだけで、皆が英語を話し、アメリカ文化という一つの文化に染まっていると主張する人もいるだろう。また、面倒だけど大事な作業を乗り越えると何が待っているかは、筆者もまだわからない。ダイバーシティを確保したらどうなるのか? 何か意味があるのか? 儲かるのか? そうした問いにも、今の時点で筆者は明確に答えることはできない。しかし、ひとつだけ印象に残ったことがある。 イベントが終わった最終日に反省会という名のもと、メンバーの一部で集まった。ほとんどが徹夜明けで、気力体力共に限界を迎えている。片付けもあるのであまり長く話せない。その中で、さりげなく桃太郎ワヤンの感想を彼らに聞いてみた。インドネシアの人、特に若い人は、この取り組みをどう思ったのだろうか。プロジェクト全体の意義を問われそうで、聞きたいようで聞きたくないような質問だ。 嬉しかったことに、皆笑顔で「楽しかった」と言ってくれた。「桃太郎の鬼退治の場面、日本では鬼はどう描かれるのか?」「桃太郎って本当はどんな話なの?」そんな質問も出てきた。筆者もわかる限りで、桃太郎の話や背景を説明した。人生でこれほど桃太郎について熱く語ったことはないだろう。 その瞬間、不思議な一体感を感じることができた。祭りの後の高揚感のせいでもあるが、目の前にいる若者たちとの距離がぐっと近づいた感覚を覚えた。それまで、オンラインで毎週のように顔を合わせてきたはずだが、ややおじさん臭い表現を使うと、「やっぱり、会って話さないと!」というのを実感できた瞬間である。そして、媒介となってくれたのは、桃太郎という物語であり、それはもはや一つの共通言語であった。 数カ月間もの間、直接会ったことがない若者たちと、途中トラブルや意思疎通の難しさを感じながら、お互いを理解してプロジェクトを前に進めていく大変さや面倒くささ。それを乗り越えた先に感じた充実感や一体感は、現代のありとあらゆる娯楽をもってしても代えることはできないだろう。 インドネシアで影絵芝居になった桃太郎(前編)どんぶらこ、海を渡る――外国の画家が「桃太郎」を描いてみたら|第1部・プロジェクトのはじまりどんぶらこ、海を渡る――外国の画家が「桃太郎」を描いてみたら|第2部・インドネシア「バトゥアン絵画」&イラン「ミニアチュール」どんぶらこ、海を渡る――外国の画家が「桃太郎」を描いてみたら|第3部・タンザニア「ティンガティンガ」&プロジェクトを終えて
G7/G20 Youth Japan共同代表/東京大学先端研創発戦略研究オープンラボ(ROLES)連携研究員 徳永勇樹