京都の近代化に貢献した医師・明石博高の知られざる功績とは?生い立ちと影響を与えた人物
(町田 明広:歴史学者) ■ 明石博高と筆者の関わり 読者の皆さんは、明石博高(あかし・ひろあきら)をご存じだろうか。恐らく、初めてその名前を聞いたという方が多いのではなかろうか。かく言う筆者も、実は比較的最近になって、その存在を知ることになった。2022年に京都府立京都学・歴彩館において企画展「明石博高ー京都近代化の先駆者ー」が開催された。実はそれを機に、筆者も深く明石を知ることになったのだ。 【写真】明石と共に京都の近代化に尽力した京都府参事(後の知事)で長州藩出身の槙村正直、顧問で会津藩出身の山本覚馬 主催者は、歴彩館に加え国際日本文化研究センター(日文研)と筆者が所属する神田外語大学であり、本学日本研究所の客員教授、松田清先生が企画から展示まで、そのほとんどを担われた。本企画展は、日文研が所蔵する「宗田文庫」、歴彩館の「明石博高文書」、神田外語大学の「若林コレクション」などから100点余りの歴史資料を展示し、明石の足跡をたどるものだった。 その際、開催記念シンポジウムが開催され、筆者もパネラーとして登壇した。与えられたテーマは、「幕末の明石博高」であった。登壇するにあたって、筆者も明石の人生を俯瞰して関心を持ち、そして、明石について深く知り、その偉大さを理解する機会をいただいた。今回は、幕末期の明石博高の動向を3回にわたって紐解き、関わりがあった志士を紹介しながら、その驚くべきネットワークを追ってみたい。
■ 明石の明治以降の功績 幕末期の明石博高に触れる前に、明石の名を歴史に刻んだ明治以降の事績について、紹介をしておこう。 明治維新を迎えると、東京奠都が行われて、明治天皇の御座所が江戸から改称された東京に移動した。これまで通り、京都に天皇が居続けて、京都が都のままであり、かつ新国家の首都となることを期待していた京都市民は、大きな失望感を覚えたのだ。それに伴い、京都の経済はあっという間に大きく衰退し始め、歯止めがかからない状態に陥ってしまった。 そのような過酷な低迷時代から抜け出すために、京都府参事(後の知事)で長州藩出身の槇村正直、顧問で会津藩出身の山本覚馬、そして明石が中心となって、官民一丸となり様々な近代化に向けた事業に取り組んだのだ。ちなみに、槇村・山本・明石のトリオは、2013年大河ドラマ『八重の桜』に登場しているため、記憶がある読者もおられるかも知れない。 明石らが取り組んだ近代化事業とは、西欧諸国の技術や学問を取り入れ、文化や産業の振興を図ることがベースであり、具体的には、日本初の小学校創立を始め、集書院(図書館)、勧業場、舎密局、療病院などを積極的に建設し、驚異的なスピードによって、革新的施策を推進することを目指した。 特に明石は、京都近代化の要となった産業や医療、理化学などを革新する中心的役割を果たし、お雇い外国人から吸収した豊富な知識を背景にして、様々な制度・施設などを作り出したのだ。明石の一般的理解とは、こうした明治以降の活躍であるが、以下、幕末期の明石の動向を探っていこう。 ■ 明石博高の生い立ち 天保10年(1839)10月4日、明石博高は京都市下京区の四条通堀川西入唐津屋町で生まれた。名は博人、号は静瀾と称した。父は代々の医薬舗「浩然堂」を営む弥三郎であり、母は浅子であった。明石は5歳で父を亡くし、外祖父で蘭方医の松本松翁に育てられ、西洋医術・化学製薬術を学修した。 幼少時代、桂和章から読書・習字・数学、儒家・紳山鳳陽から漢文学、長じて桂園派門下の五十嵐祐胤から国文学・歌道を学んだ。また、清水寺の月照から国学、密厳院の清厳和尚から梵釈、信亮僧正から台教を教授された。 明石の関心は多岐にわたっており、今で言うところの文系・理系いずれにも長じた、天賦の才を持っていたことは間違いない。