三島喜美代さん、上村淳之さん、林聡さん…逝った関西美術界の巨星をしのぶ
「僕は僕、父は父、松園さんは松園さん」
3代にわたっての文化勲章受章が決まったとき、淳之さんが語った言葉を忘れることはできない。ただ、そっけない言葉とは裏腹に、周囲の期待に応え、肩の荷を下ろしたという晴れ晴れとした気持ちがこもっていたようにも感じられた。
奈良の家にはたくさんの鳥を飼っていた。11年前、文化功労者になったインタビューの際、自宅をうかがったときには200種1500羽がいるという話だった。「ヒナから育てると、彼らは警戒心をもたない。信頼し合える存在になれる」。そうして仲良くなった鳥をじっと観察し、画業につなげていった。
帰り際、たくさんの虫の音が聞こえてきた。風情があるので家の人に聞くと、鳥の餌にするため育てていたのだそうである。愛鳥家には愛鳥家の苦労があると知った。
いつも、日本画の未来を考えていた。母校の京都市立芸術大学で多くの後進を育てた。「学生たちとよく飲みに行って、いろんな相談に乗ったものだ。今夜あたり、どう。よい店があるんだ」
仕事があったせいで、丁重にお断りしたが、その後、体調を崩され、お誘いはなくなった。いまとなっては悔やまれる。
■「活きるため」アートは必要
ギャラリーノマル・ディレクター・林聡さん=大阪府出身。大阪教育大で美術を専攻。卒業後、欧米型版画工房をならってノマルを立ち上げ、経営者とディレクターを兼務。11月1日死去、60歳。
「大阪で一番活発なギャラリーだった」と彫刻家の植松奎二は語る。林さんは平成元年、25歳で版画工房、のちにデザイン編集スタジオ、展示スペースを兼ね備える株式会社ノマルを立ち上げた。ノマルはノマド(遊牧民)とアート(芸術)からの造語。チャレンジする精神をそこに込めた。
植松は3年にここから作品集を出版する。「林君とはずっと一緒に仕事をしていた感じがする」
11年に新しくなった大阪・城東区のギャラリーノマルで最初に個展をした作家も植松だった。「普通のギャラリストと違い、作家の視線をもって作家と一緒に仕事をしていくタイプだった」