「思考力」を飛躍的に高めるためにアタマの良い人が実践している、絶対に真似するべき「思考習慣」
「なぜそう言えるのか?」と根拠を問う
2つ目の問いは、「なぜそう言えるのか?」(「根拠」の普遍性をめぐる問い)というものです。この問いは、「主張内容と、その根拠との間の飛躍」を点検するときに有効な問いです。 例えば、「子どもは基本的に母親になつくのだから、育児は母親がすべきだ」という主張があるとします。この主張の背後には「飛躍」があります。なぜなら、子どもがお母さんになつきやすいからと言って、「育児は母親(女性)がするものである」という主張には繋がらないからです(当然男性もすべきです)。「なぜそう言えるのか?」という問いは、こうした飛躍や、「育児は女性がするものである(=男性はしなくてよい)」という暗黙の前提を暴き立てることができるのです。 そして多くの場合、「なぜそう言えるのか?」という問いに答えることは容易ではありません。この問いに直面したとき、多くの人は「だってそうだから」と同じ主張を繰り返すことになるでしょう。こうした返事の仕方を「同語反復(トートロジー)」と言います。トートロジーとは、何の情報も付加せず、同じことを繰り返すだけの言葉です(例:「女性が育児をすべきだから、女性が育児をすべきである」)。これでは積極的な意味で思考をしているとは言えません。 トートロジーの循環から抜け出すためにも、私たちは「なぜそう言えるのか?」という問いを発することを通して、自らの主張内容を批判的に吟味する必要があるのです。 3つ目の問いは、「そもそも、○○とは何だろうか?」(「定義」の普遍性をめぐる問い)というものです。この問いは、物事の本質を捉えるときに必要な問いです。 例えば、「社会の不正を正さなければならない」と述べる人がいるとしましょう。この主張自体には、もちろん何の問題もありません。ですがその際に、「不正」という言葉の理解が曖昧であったら、その主張はあくまで形式的なものにとどまってしまいます。「不正とは何か」ということを理解するためには、「そもそも、正義とは何だろうか?」ということを真正面から検討しなければならないでしょう。 例えば、「正義」とはすべての人に公平な機会を与えることでしょうか? それとも平等な結果を与えるものでしょうか? あるいは、別の何かが「正義」と呼ばれるのでしょうか?こうした探究をしない限り、「社会の不正を正さなければならない」という主張は、空疎なものにとどまってしまうのです(なぜなら、何を達成すればいいのか、未だ検討されていないのですから)。 「○○とは何か?」という問いは確かに抽象的で難しいものですが、説得力のある議論を展開するためには、こうした「そもそも論」を正しく問うことが必要なのです。 以上、普遍性をめぐる3つの問いを駆使することによって、私たちは自らの思考の範囲を拡大することができます。そして、その思考の範囲が数多くの事例に当てはまるか否かを判断していくことによってこそ、「自ら思考する力」が徐々に鍛えられていくのです。 さらに連載記事<アタマの良い人が実践している、意外と知られてない「思考力を高める方法」>では、地頭を鍛える方法について解説しています。ぜひご覧ください。
山野 弘樹(哲学研究者)