空力を徹底追求!シェイプクラフト製ルーフを装着したロータス・エラン26R
ロータス純正のエラン26Rに、空力を追求したシェイプクラフト製ルーフを装着したものが3台だけ存在した。これはその1台だ。 【画像】「これでどうしてもレースをしたいという人たち」のためにチャプマンが開発を決意したエラン26R(写真5点) ーーー ジョージ・オーウェル風にいえば、「すべてのエランは平等だが、一部のエランはほかよりもっと平等である」。いや、この希少なビーストについていうなら、もっと絞り込んで、「すべての26Rは平等だが、一部の26Rはほかよりもっと平等である」というべきか。最初から順を追って説明しよう… ●チャプマン哲学の極致 1962年のこと、ロータスがあるロードカーを発売した。画期的だが先進的すぎたFRP製モノコックのエリートを継ぐモデル、エランだ。新モデルは実に愛らしい外観だった。これは、エリートを手がけたロータスの会計係兼デザイナー(スキー選手でもあった)のピーター・カーワン・テイラーではなく、南アフリカ出身のエンジニアで、のちに持ち運べる作業台「ワークメイト」の父となったロン・ヒックマンのデザインだった。 エランはロータスの哲学の極致だった。軽量なFRP製ボディに、基本のパーツはフォードとトライアンフから流用し(クラクションだけはなんとマセラティ製)、そこに独自のスパイスを振り掛けて、ミシュランの三つ星を獲得する生きのよさとハンドリングを手に入れた。文字どおりその中心を成すのは、18SWG (約1.2mm)厚の薄い鋼板を折り曲げたシンプルで軽量なバックボーンシャシーだ。元々は、コーリン・チャプマンが効果を疑っていたロトフレックス・カップリングを試すために考案されたといわれている。メカニカル・ジヨイントではなく、ドーナツのような形状を持つラバーをカップリングに使ったことでスムーズ極まりないパワーデリバリーも実現したが、やがて振動が起きて破損するのが難点だ。 サイドの補強や側面衝突からの保護などを気にするのは臆病者だけ、といわんばかりの構造だった。では、パワーのほどはどうだろう。最初の20数台は1499cc、以降は1558ccの排気量を持つ欧州フォード製の5ベアリング式116E型エンジンに、ロータスによる合金製のDOHCシリンダーヘッドを載せたものだ。BRM(のちにコベントリー・クライマックスに移籍)のハリー・マンディーが設計した複雑な仕組みで、オーバーヒートを嫌う。 キャブレターはウェバー製40だったが、後期にはデロルト製やストロンバーグ製も使われた。ロータスが好んでベースに使ったエンジンは、ブルーオーバル (フォード)の多くのモデルで使われていた116E型で996~1599ccから、39~111bhpを発揮していた。一方、ロータス・タイプ26ことエランは、出力こそ105bhpで、フォードの最上位仕様にはやや劣るものの、車重はわずか640kgか、それにも満たなかった。 このエンジンと組み合わされたのは、フォードの古典的名作である軽快な4段ギアボックスだ。もっと高額なギアボックスにも引けを取らない隠れた逸品である。ブレーキは4輪ともディスク式で、リアはインボードに搭載する。ステアリングは”ただの”トライアンフ製ラック&ピニオンだが、人の心を読むサイキックさながらだ。こうして、美しくしなやかでソフトな乗り心地のロードカーでありながら、ナイフのようにシャープで、同時にイエス・キリストのように寛大でもあり、GTのような乗り心地だが、シングルシーターのようにコーナーを攻めることも可能な車が生まれた。まさに自動車の錬金術。非の打ちどころのないスポーツカーだ。 ●レースを目指す顧客のために 当然、もっと強化した競技仕様を求める声がたちまち大きくなり、1964年に26Rが誕生する。チャプマンは当初、ベーシックなタイプ26はロードカー以外の何ものでもないとして聞き入れなかったが、のちにこう説明した。「2年目になると、私たちも考えた。これでどうしてもレースをしたいという人たちがいるなら、本格的な開発に取りかかるべきだな、とね」 このときロータスは、イアン・ウォーカー・レーシングと、チェッカードフラッグのグレアム・ワーナーが既に開発していたレース仕様のエランを大いに参考にした。ボディを軽量化し、結局ロトフレックス・カップリングを断念して、ウィッシュボーンをアップグレード。プレーキはツインマスターシリンダーのデュアルサーキット式とし、アンチロールバーは太く、キャリパーは軽量なものに換え、マグネシウム製ホイールと、ベンディックス製ポンプを採用した。 エンジンはコスワース (のちにBRM) の手によって、1594ccにボアアップされ、出力140~160bhpにチューンアップされた。26Rは全体として少しずつ特別な車だった。すべてがより硬く、大きく、太く、軽く、そして速くなったのだ。価格も上がり、キットが1645ポンド、組立済み完成車が1720ポンドで、ジャガーEタイプに迫る金額だった。 それでもレース界からの需要は大きく、ファクトリーでおよそ100台が製造された。シリーズ1が50台強、シリーズ2が50台弱だ。これは大成功に終わった。 ●空力特性を改善したい さて、ここからが本題だ。幹線道路のA3が交差するイギリスの交通の要衝に、レーシングドライバーのバリー・ウッドが経営するサービトン・モーターズがあった。ウッドはエランのFRP製ボディワークに、流線型のアルミニウム製ファストバックルーフを接着し、空力を向上させた。まず自宅ガレージで、バルサ材を使ってプロトタイプを製作すると、これを自身のエラン(登録ナンバー39 PG) に取り付けた。実物の製作は、近隣のトールワースにあった (その後レザーヘッドへ移転) シェイプクラフトが行った。 シェイプクラフトは航空産業と関係の深い会社で、のちにロバート・ジャンケルのパンサー・ウェストウィンズに吸収された。ウッドが1964年のレーシングカーショーで1台展示すると、非優のピーター・セラーズがこれを見て、妻のブリット・エクランドのために買い取った。ウッドは既に1963年11月には「ロータス・エランGTコンバージョン」と銘打って、あちこちに広告を出していた。価格は標準のエランを含めて1250ポンド、コンバートのみの費用は170ポンドで、5~8mphのスピードアップを約束していた。コンバートされたのは多くても20台と考えられているが、10台ほどだった可能性もある。 そのうち3台が純正の26Rからのコンバートだった。ウッド自身のレーシングカー、登録ナンバーRFP 696Bと、レズ・アーノルドのBPE 230B、そして今回の主役、AUT 173Bだ。そのヒストリーは目を見張る。最初のオーナー、ディック・クロスフィールドは、BRMによるエンジンのリビルドを受けたあと、AUT 173Bで1965年のオートスポーツ選手権に参戦し、ジョン・ハリスと共に6勝を挙げて、年間2位で終えた。 翌シーズンには1950ポンドで売却の広告が出たが、売り値は途中で1600ポンドに下がった。次のオーナーは、ファーストレディー・インターナショナル・レーシングチーム(FLIRT)の女性ドライバー、ジャッキー・ボンド-スミス。そこからチェッカードフラッグのトレバー・ハワードを経由してジム・ジョーンズの元に渡ったが、彼は若くして亡くなったと考えられている。続くレン・ブリッジは、F1にも出走したクリス・ローレンスとその店ローレンスチューンの関係者だった。ゲリー・マーシャルとジョン・ウィングフィールドの仲介で、1975年にAUT 173Bを800ポンドで購入すると、2年をかけてレストアし、1985年までこれでレースに出走した。 その後も、ロータスのスペシャリストであるトニー・トンプソンや、ロバート・カウーソなどの元を点々としたあと、2016年にスイスに住むマイク・ハンフリーズから、ヒストリックレーサーのマーク・ミッジリーが購入した。続いて、リチャード・ソロモンズが短期間だけ所有してリビルドし、テストベンチでは7500rpmで175bhpを記録した。これを2020年に現オーナーのロビン・エリスが手に入れたのである。 ・・・後編へ続く。 編集翻訳:伊東和彦 (Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:木下 恵 Transcreation: Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) Translation: Megumi KINOSHITA Words: James Elliott Photography: Jayson Fong THANKS TO Goodwood Motor Circuit and Robin Ellis, who is selling the Elan Shapecraft via simondrabblecars.co.uk.
Octane Japan 編集部