「身体も脳もピンピン」看護界のレジェンド・92歳の名誉教授が続ける「お年寄り」にならない養生術
92歳の現在まで、60年にわたって看護師として勤め続け、現在は看護大学の名誉教授として後進の育成にも力を注いでいる川嶋みどりさん。 【写真】’07年に美智子さまからフローレンス・ナイチンゲール記章を授与された川嶋さん
戦時中「学べなかった」悔しさから看護の道へ
川嶋さんは幼少期を韓国の京城(現在のソウル)で過ごした。6歳のときに日中戦争が始まり、父の転勤で韓国と中国各地を転々とし、小・中学校は9回も転校を繰り返した。終戦を迎えたのは14歳のとき。一家は父の故郷・島根県へと移り住んだ。 「戦時中は学徒動員もあり、勉強もままならず、学ぶことに飢えていたんです。幸いなことに日本には家族全員で戻ってこられましたが、生活は苦しく、両親に進学したいと言えなかった。 そんなとき、学費もほとんどかからず資格が取れると聞いて、日本赤十字女子専門学校(現・日本赤十字看護大学)の門をくぐりました。実は看護師の仕事の知識もほとんどありませんでした」(以下、川嶋さん) 学校の寮に住み、筆記用具に事欠く厳しい環境のなか、無我夢中で勉強を続けた。 「子どもが大好きだったので、実習で行った小児病棟の実習が楽しくて。それで小児科を希望したんです」 卒業後は日本赤十字社中央病院(現・日本赤十字社医療センター)で働き始める。
労働環境を改善し看護師を生涯の仕事に
「当時の日赤は全寮制。看護師は男子禁制の独身寮に学生時代も卒業後もそこに住むので自由もない。しかも結婚したら退職するしかなかった」 この状況に疑問を感じた川嶋さんは、働き始めて5年目、同じ考えの仲間と共に寮を出てひとり暮らしを始めることで、病院に対し、看護師の労働環境の改善を求めた。 寮の外に出て初めて、自分の賃金がいかに安く、労働状況が厳しいかを知る。 「私は社会貢献ができる看護師という専門職を一生涯の仕事にしたいと考えていました。だから看護師は結婚や出産をしたら辞めなくてはいけないなんておかしいと思って。 でも、当てつけのように小児病棟の担当から外されてしまいました。それは悔しかったですけどね(笑)」 その後、結婚し、2人の子どもに恵まれる。当時は専業主婦が一般的で、仕事と育児の両立という壁にも直面したが、ここでも職場環境を改善して乗り切った。 「仲間たちと病院内に保育所を作ったんです。私は仕事が楽しくて辞めたいと思ったことはないけれど、わが子が病気でも家でひとりで過ごさせなくてはいけなかったときは本当に苦しい思いをしました。保育所ができてからはそんな心配もなくなりました」 女性が働くことに肯定的だった夫のサポートも大きく、家事は分担。「食べることだけは粗末にしたくない」という川嶋さんが健康第一を考え、家族の食事だけはこだわって作り続けた。 さらに「好奇心の塊」である川嶋さんの学びたい欲求もあり、働く看護師の学びの場を作る試みもスタートする。 「当時は看護大学が少なく、みんなが勉強したくても、なかなかその場がなくて。それで月に1度、3時間ほどみんなで集まり、大学院レベルの勉強をする看護師グループができあがりました」 やがて大学や専門学校の非常勤講師の声がかかるようになり、教育者として看護に関わるようになる。 「若いころからバイタリティーはあったと思いますが、私の考えを家族が当然のように受け入れてくれたのはありがたかったです」