【悼む】ボクサー目指す若者愛した長野ハルさん、戦争体験から夢追う姿は平和の象徴に
ボクシング界の名門帝拳ジムの長野ハル・マネジャーが1日午後8時40分、老衰のため死去した。5日、本田明彦会長がホームページで発表した。99歳だった。1948年(昭23)に帝拳株式会社に入社し、日本ボクシングコミッション(JBC)が創設された52年にマネジャーライセンスを取得。75年以上にわたりジムの屋台骨を支え、大場政夫、浜田剛史、村田諒太らの世界王者をはじめ、ボクサーから母親のように慕われた。 ◇ ◇ ◇ 飽食の時代にあえてボクシングという過酷な道を選び、ジムに足を運ぶ。長野さんはそんな夢と向上心にあふれた若者たちを心から敬愛していた。 「あの子は新聞販売店で働いていて毎朝午前3時に起きているのよ。練習は夕刊を配ってから。私たち大人よりずっと真面目ですよ」。三十数年前、ジムで10代の練習生を見つめながら、どこか誇らしげに話す笑顔は今も忘れられない。 「お預かりした大事な子を、親御さんにもとの体でお返しする」がモットーだった。ボクシングの怖さを知るがゆえに、選手の健康管理には特に厳しかった。「真面目な子が傷つくでしょう。試合を見るのがつらいのよ」とも話していた。 一方で選手を見る目は確かだった。大場政夫を16歳の入門時から手塩にかけてジム初の世界王者にした手腕は有名。「最初はやせていて、小さくてね。でも運動神経がよくて、とても気が強かったの。だから育ててみようと思ったの」。後年、本人から聞いた。 決して表舞台に立とうとはしなかった。2年前、半生を振り返る取材をお願いするとやんわり断られた。食い下がると「ウチは選手を2人死なせているんですよ」と言って笑顔を消した。交通事故で亡くなった大場政夫と試合後に命を落とした辻昌建。心の奥に冷たく刺さった悔恨の念に触れてしまった申し訳なさで、何も言えなくなった。 心の底には忌まわしい戦争体験があった。戦況悪化で学生が動員された学徒動員。43年に神宮外苑競技場で行われた出陣壮行会の、日の丸が打ち振られるスタンドに長野さんもいた。 「みんな勉強したくて大学に入ったのに鉄砲を担がされて…。本当にかわいそうで、悲しくて、顔中涙だらけになったの」。女子大に進学した長野さんの教師への道も閉ざされた。ひたむきに夢を追うジムの若者の姿は、彼女にとって平和を実感できる光景でもあったのだと思う。 1年目の駆け出し記者時代に出会って36年。長野さんはいつもシンの強さが太い針金のように体の中を貫いていた。最後にお会いしたのは昨年11月。都内で夕食を共にした時に彼女はしみじみと言った。 「パリのオリンピックでたくさん日の丸が揚がったね。本当に平和な国になったね。よかったね。よく見ると日の丸ってきれいな旗だなあと思いますよ」。その声は今もはっきりと耳に残っている。【首藤正徳】