刻み煙草用の包丁として一躍有名に...江戸幕府から専売のお墨付きが出た「堺刃物」
古代からの鉄製品づくりを基礎にして
堺市内には世界遺産に登録される、国内最大の前方後円墳である仁徳天皇陵をはじめとした百舌鳥(もず)古墳群が存在する。それらの古墳を築くにあたっては、多くの人員とともに鋤(すき)などの鉄製農工具が大量に必要であった。そのために、この地域に鉄器づくりの技術集団が集められ、製造に従事したという。 そうした技術はこの地に定着し、平安時代後半から室町時代には、河内鋳物師(いもじ)が、生活用品から梵鐘(ぼんしょう)まで金属製品を生産して世間に知られた。彼らの存在は、中世都市堺が成立した要因の一つであったとみられ、鉄砲の生産地としての発展の基礎ともなった。 天文12年(1543)、火縄銃が種子島に伝来。堺商人の橘屋(たちばなや)又三郎は、種子島に1、2年とどまって鉄砲の技術を学び、堺に戻ってその製造を開始した。「鉄砲又(てっぽうまた)」と呼ばれた彼を起点に生産は拡大し、堺産の鉄砲は「堺筒(さかいづつ)」という格別の名で呼ばれることになる。 短期間で堺が鉄砲の生産地としての地位を確立できた背景には、鉄を扱う技術がすでにあったことに加え、さまざまな部門の職人たちが集住していたことによって、鉄の銃身、木製の台座、火縄を据える発射機構など、部品ごとに分業で製造し、最終的に組み上げるという効率的な生産方法を実現でき、大量生産と品質向上が図られたことによる。 鉄砲の産地として紀州根来なども知られるが、これほどの生産体制が確立できたのは、堺をおいてほかにない。 徳川幕府が成立し、太平の時代に入っても、鉄砲の生産は継続した。大名やその家臣にとって鉄砲は、狩りなどの際にステータスを示す武具にして工芸品であったし、一方、市井の農民にとっては、田畑を荒らす鳥を追い、獣を排除する必携の道具であったからである。堺に残る鉄砲鍛冶屋敷には、そうした販売先を記録した帳簿などの資料も伝えられている。 とはいえ、やはり鉄砲の需要は、戦国乱世ほどではなかったであろう。それに代わって、新たな生産品として堺で台頭したのが、刃物であった。 南蛮貿易で伝来した煙草(たばこ)は、近世に入ると国内でも葉の栽培が盛んとなり、庶民にまで喫煙が趣味として広がる。そして、大量の消費とともに需要が高まったのが、葉煙草を刻む煙草包丁であった。 海外貿易の拠点であった堺には早くから煙草が流通し、近世初期から専用の煙草包丁が作られてきた。刻み煙草は繊細なほど良品とされ、堺の煙草包丁の切れ味はその要求に応え、かつ耐久性にも優れていたことから、全国に普及。 幕府もこれに着目して専売品とし、「堺極(さかいきわめ)」の印を付した。これが、刃物の生産地としての堺の名を知らしめ、料理包丁をはじめとする他の刃物製造の発展につながるのである。