大正ロマンの代名詞・竹久夢二の見ていた東京を追体験。日本橋・三越、銀座・歌舞伎座…「竹久夢二が描いた大正時代の東京と女性たち」【生誕140年】
〈発売中の『婦人公論』10月号から記事を先出し!〉 今年、生誕140年を迎えた画家・竹久夢二。彼の描いた美人画やイラストは東京のハイカラ文化をリードし、大正ロマンの代名詞となりました。竹久夢二美術館の学芸員・石川桂子さんのガイドとともに、夢二の見ていた東京の街を追体験してみませんか(構成=篠藤ゆり 画像提供=竹久夢二美術館) 【写真】マンドリンを弾く夢二 * * * * * * * ◆流行の最先端はスケッチから生まれた 画家・詩人として知られる竹久夢二は16歳で岡山から上京し、49歳11ヵ月で亡くなるまで東京で暮らしました。その間、長期で旅に出たり、晩年の2年数ヵ月は外遊したりもしましたが、約30年、東京を拠点に活動しています。 上京以来引っ越しを繰り返し、最後は当時郊外だった世田谷に居を構えました。晩年も、毎日のように銀座に出かけていたそうです。 夢二が上京したのは明治時代後半。その頃の東京には、まだ江戸の風情が残っていました。夢二が頻繁に街に出かけてスケッチをしたなかには、京橋大根河岸(だいこんがし)市場や、日本橋に蔵がたくさん並んでいる魚河岸の風景も見られます。
【日本橋】三越本店しかし大正12(1923)年、関東大震災で東京は壊滅的な被害を受けました。復興後、街はどんどん近代化し、モダン都市に生まれ変わります。 夢二は、そんな東京の変遷を経験しました。東京という街に強い愛着を感じていたようで、震災後に故郷の両親へ送った手紙には、「余は東京を故郷と定め申し候」という言葉も残されています。 恋多き夢二は、実在の女性をモデルにして制作を手掛けることもありましたが、多くは「理想の女性」を描いていました。作品を追っていくと、抒情的な大正ロマン風の女性だけでなく、洋装のモダンガールも登場します。 今でいう商業デザインの分野でも活躍し、広告の絵なども描いているので、新しい風俗にも敏感だったのでしょう。 日比谷公園や日本橋三越本店によく足を運び、見かけた女性をスケッチしたことも。彼のスケッチは見たままを写し取るのではなく、その人の印象や仕草に重点を置いていました。