部下に任せた仕事が気になって仕方ない…それって「経営の欠如」かも?プロセスばかり気にすると、成果でなく心労だけが積み上がる
◆積み上がるのは成果ではなく心労 こちらは善意で部下の仕事をサービス残業でカバーしているのに、部下には「やたら細かいことにうるさい上司」「何も任せてくれない上司」として嫌われる喜劇的状態の出来上がりである。頑張っても報われない。成果の代わりに心労を積み上げているだけだ。 このように対部下過干渉型の人は、なまじ周囲の行動の先を予測してしまうために、頼まれてもいない他人の心配をし、同じく頼まれてもいない先回りの手助けをして、手助けをしたことで別の行動の結果予測へと関心が移り、また別の心配から別の先回りの手助けをする……というループにはまり込む。 ここに、「経営の欠如」が見て取れる。 もちろん、こうしたタイプの人は「仕事が丁寧な人」であることは間違いない。しかし報われないままに心労を抱えてしまうと(心労の種を見つけるやいなや自分から猛ダッシュでレシーブしにいっているのだが)やがては病んでしまうという悲劇に見舞われる。重要な仕事で神経が張っているときには誰にでもそうした危険がある。 最近では感受性が高すぎる人について描いた書籍が流行した(学術的には議論が続いているが、「HSP」や「繊細さん」といった言葉を耳にした方も多いだろう)。そうした人たちは「高感度のセンサーを持っている」という意味で本来は特殊な才能の持ち主だ。 だが心労を経営していく心構えがなければ、こうした才能はむしろ生きづらさの原因になってしまうだろう。
◆心労を生み出すもの 感受性の強さを心労だけに結実させない経営のためには「生活や仕事における最終的なゴール=目的を常に意識する」必要がある。 そもそも心労には「気にするから気になる」という側面がある。ゴールではなく細かいプロセスに目が向いてしまっているのである。 そこで、目的だけに集中して、他に気になることがあっても初手は「気のせいか」で済ます。相手が怒っているのか、助けが必要なのかなど、気になることは本人に直接きいた後に心配するよう心がけるといった手があるだろう。 プロセスに気をとられると目的への満足解ではなく最適解を求めすぎてしまい、それがまた心労を生み出す。 しかも日常生活で我々は最適解など求めていないし、そもそも最適解を求めるとかえって馬鹿なことになる。最適解など現実には存在しないと割り切る方が合理的だ。