小林亜星「もう終わりだ」大ピンチ秘話から今後の芸能・音楽への危機感
進駐軍とともにアメリカの音楽がやってきた
昭和20年に終戦を迎えると、進駐軍とともにアメリカの音楽もやってきた。FENの原型ともいえるラジオ局WVTRの放送が開始。 「レス・ブラウンが作曲を手がけた『センチメンタル・ジャーニー』のサウンドにまいっちゃって。戦争をしている間、アメリカの音楽はメチャクチャ進歩していたんですよ。虜になりました」 その後、父親の実家が病院だったこともあり慶應大学の医学部に進学したが、勉強そっちのけで学生バンド活動にのめり込む。朝鮮戦争の頃、横浜にあった進駐軍向けのクラブに出演するようになる。亜星はビブラフォンを担当、演奏する側として音楽活動を始めたわけだが、大学を出るといったん音楽とは無関係な会社に就職した。 「銀座の製紙会社で営業をやったんですが、成績は良くてもどうも面白くない。好きでやっている人には結局負けちゃうから、やっぱり人間、自分が好きなことをやらなければダメだって気づいたんです。『それじゃ俺は何が好きだったんだ?』と自問自答すると、やっぱり音楽しかない。会社をやめて、作曲家の服部正先生に師事しました。最初は音大出身者以外は弟子にしないと断られたけど、なんとか入門を認めてもらえたんです」
いまでも5分あれば曲をつくれる
演者から作曲家になり、順調にキャリアを積んだ。レナウンのCMソング「ワンサカ娘」は、弘田三枝子の歌唱でヒットし出世作となった。起用のきっかけは、亜星の妹である川村みづえが同社の宣伝部でアルバイトをしていて、みづえが売り込んだものだった。以後、CMソングを中心に活動、昭和44年には同社の「イエ・イエ」をはじめ「エメロンシャンプー」などのCM音楽作曲に対し第6回放送批評家賞(ギャラクシー賞)を受賞している。まさに湧き出るように次から次へと人々の記憶に残るメロディーが生まれていった。最盛期は、1日に3~4曲を作ったという。 「僕にとって、湧かないことのほうが不思議でね。いまも、作れと言われたら5分もあれば作れます。最初はNHKの『夜のしらべ』という30分の音楽番組で、毎週すべて僕がアレンジしていたんです。でもアレンジばかりやっていると、使う脳が違うのか、メロディーメーカーができなくなっちゃうの。不思議ですけど。それで、これはヤバいと思って、番組を人に渡してやめたんです。それで曲作りに専念しました」