かわいがっていた小型犬「ポス」がいなくなった。悲しむ私に母は言った「ポスは戦争に行ってお手伝いをするのよ」【証言 語り継ぐ戦争】
戦闘機が、乗っている米国人の顔が見えるくらい低く飛んできて、機銃掃射でタタタタタタと攻撃されて、家の庭のブランコから慌てて降りたこともあったが、あれはいつのことだったか。 近くの海に、爆弾が落ちて見に行った。沖に巨大な丸い穴があいて、丸いふちに砂が盛り上がって、その上を歩いた。墜落した米軍機の残骸の見物にも行った。どちらも子どもの好奇心なのか、楽しかった気がする。 終戦後は、祖父母のいる重富(姶良市)に列車で引き揚げた。焼け野が原だった。私は当時、赤い革靴を履いていたが、重富は、わら草履や裸足の人が多くて、びっくりした。父は仕事を失い、しばらく農業をして、役場や造船所に勤めた。一気に貧乏になって、服を売って米を買った。 私は教師になって58歳まで小中学校などに勤めた。海外旅行が好きでロシアに行ったこともある。バレエや美術館にもう一度行きたかったが、もう無理。ウクライナに侵攻して学校もむちゃくちゃにしてしまって。とにかく早く戦争をやめてほしい。
(2024年11月28日付紙面掲載)
南日本新聞 | 鹿児島
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