「子育てを休みたいと頻繁に思う」「子どもを脇へ押しやりたい」…<子どもを引き金として起こる感情>に支配されないための考え方とは
◆大人になるべきは私たちのほう もしあなたが、自分が脇へ押しやられるからといって家族生活を腹立たしく思うなら、それはあなたが子どものころに脇へ押しやられ、親の人生について考えたことがないせいかもしれません。うんざりするような気持ちや子どもとの断絶についても同じです。 私が「見捨てる」とか「恨み」といった言葉を使うと、大げさだと思う人もいます。 「子どもを恨んでなんかいませんよ。ときどき1人になりたいと思うことはあるけれど、子どものことは愛しています」と彼らは言います。 しかし「見捨てる」にも段階があるのです。最も深刻な段階になると、子どもの人生から物理的に消えるという形で完全に見捨てることになります。 しかし「見捨てる」ことのなかには、子どもが関心を持ってもらいたがっているときに押しやるとか、子どもが話そうとしているときに本気で耳を傾けないといったことも含まれると私は考えます。 たとえば、子どもが自分で描いた絵を見せようとしているときもそうです。ある意味で、子どもは絵を通して自分の本当の姿を見せようとしているのです。 子どもを脇へ押しやりたい、ぐっすり寝ていてほしい、1人で遊んでいてほしい、こちらの時間を占領しないでほしいと思うのは、つらい記憶の引き金になるから相手をしたくないと感じているせいかもしれません。そのせいで子どものニーズに素直に応じることができないのです。 子どもを押しやってしまうのは、自分の人生のほかの領域―仕事とか、友人とか、ネットフリックスとか―のためにもっと時間がほしいからだと言いたくなるのもわかります。 けれども、そこで大人になるべきは私たちのほうです。
◆恥を誇りに 私たちは、こんなに子どもに手がかかるのはほんの一時期であることを知っています。仕事や友人とのつきあいやほかの趣味は、目の前の小さな人がこれほど私たちを必要としなくなってから再開すればいいのです。 自分が受けた扱いを次の世代に伝えないようにするのは難しいことです。正体不明の感情にもとづいて反射的に行動するのではなく、自分がどう感じているかを自覚し、じっくり考える必要があります。 あまり好ましくない反射的な選択をすることで―たとえば、実際に家を出てしまったら―自分を恥ずかしく思うこともあるでしょう。そうなると、その恥ずかしさを否定したいがために、今度は自己弁護に走ります。 しかしそれでは何も変えることができず、機能不全だった部分をそのまま次の世代に伝えてしまいます。 人は恥ずかしい気持ちのせいで死ぬことはありません。いま起きていることを正しく理解できれば、恥を誇りに変えることができます。自分の思い込みに気づき、どう変わればいいかがわかるからです。