<「印象派」に孤立したエドガー・ドガ>バレエと競馬の画家が育んだ〈愛国〉、「ドレフュス事件」に揺らいだ晩節
アレヴィ一家との古い親密な友情は終わりを告げ、「反ユダヤ的な芸術家」という刻印が没後にいたるまで、この華麗な「踊り子の画家」につきまとうことになった。
「異質」と言われる中で得た評価
それにしても、官展に対抗して1874年に開かれた「第一回印象派展」の中心人物の一人で、優美な描線と色彩が繰り広げた〈踊り子の画家〉は、フランスの国論を二分する大きな争点となったこの事件を境に「反ユダヤ派」になぜ急速に近づき、〈差別〉と〈国粋〉という社会的な潮流に同調していったのか。 ドガはパリの裕福な銀行家の家に生まれた。〈De Gas〉と貴族風の綴りを持ったが、祖父はフランス革命の際にイタリアのナポリに亡命して銀行を起こした新興ブルジョワ、米国ニューオルリンズ出身の母親は綿花取引で莫大な財を成した一族の出身である。 普仏戦争に敗れてパリ・コミューンの混乱が広がる空気のなかでドガは官展の巨匠、ドミニク・アングルから線で描く人体の素描を学んだ。のちにたどりつくオペラ座の踊り子たちのポーズや競馬場のサラブレッドの躍動といった画題は、古典絵画が追い求めた人間や動物の解剖学的な造形を時代の風俗のなかに探ったものであった。 しかし、その歩みは屈折している。 歴史画や肖像画や風俗画を描き、写実絵画の新たな広がりを求めて取り組んだ作品を官展(サロン)へ出品したが、伝統と革新の間に揺れる作風は批判を浴びて容れられず、ドガは「サロン審査員諸氏への公開状」を公にして官展と訣別した。 次に選んだ舞台は1874年4月15日、パリ・キャプシーヌ通りの写真家、ナダールのスタジオで開かれた第一回印象派展である。「画家、彫刻家、および版画家の協会」という名前のこの画家たちは、官展に対抗して明るい外光を画面に取り込み、陰翳(いんえい)や奥行きに代わる新しい筆触に大胆に挑んだ。伝統を否定したその造形の軽さから、皮肉を込めて呼ばれた「印象派」というグループの名前が、のちの美術史を飾るのである。 ここでもドガは孤立した。同時代の画商のアンブロワーズ・ヴォラールが記している。 〈「外気の中で描く」という、モネとその仲間たちのモットーは、ドガにとっては、毎回印象派展に出品し続けたにも関わらず、呪いの言葉であった。モネの展覧会に顕れたドガは、コートの襟を立てて「風通しが良すぎるから、風邪をひかないようにしなけりゃね」と皮肉を言った〉(「ドガの思い出」東珠樹訳) モネ、ベルト・モリゾ、シスレー、セザンヌなど、印象派の旗揚げで歩みをともにした画家たちの作風はもちろん、多彩である。サロンに対抗して外気や自然や人物の肌合いを新たな手法で描く画家たちの潮流は、古典や歴史画から学んできたドガの鋭利で知的な絵画観とは必ずしも相容れず、この「現代生活の古典画家」とはむしろ異質ともいえた。 「印象派」は画壇のスキャンダルとさえ呼ばれたが、ドガはその後4回にわたる印象派展に毎回出品を重ねた。守旧的な官展に抗して「呉越同舟」のような印象派展へかかわるなかで、彼が見出したのは「オペラ座」などの劇場や競馬場といった社交空間を舞台にして、同時代の風俗をあたかも映像のような自在な筆触で描く独特の世界であった。 オペラ座のバレエの練習風景を描いた代表作の『ダンス教室』を、ドガは第一回印象派展の前年に着手している。著名な振付師のジュール・ペローが見守るなかで、ポーズをとったり身支度をしたりする踊り子たちの動きが生き生きと浮かび上がる。 詩人のステファン・マラルメやポール・ヴァレリーといった当代の有力な文学者たちが、ドガの踊り子や人物像を高く評価したことから、次第にドガの名前が注目されていった。