朝ドラ登場の実業家、大阪経済界の礎築く 鉱山大王の称も 五代友厚(上)
五代の転機はモンブランに出会った30歳のとき
1885(明治18)年2月、新聞各紙は五代の上京を報じた。この時の上京目的は、命旦夕に迫った岩崎弥太郎の病気見舞いではなかったか、とにらんでいるが、確証はない。いえるのは数日後に岩崎は他界し、五代も半年後に岩崎と同じ胃ガンで亡くなったことだ。ともに政商と呼ばれ、西南雄藩の快男児は51歳の働き盛りで相次いで没した。異なるのは、岩崎が巨万の富を残したのに対し、五代は負債総額が100万円にのぼったことだろう。 五代の50年の生涯で特筆されるのは30歳のとき、7カ月に及ぶ欧州旅行でモンブランという怪物経済人に出会ったことであろう。五代はモンブランを通じて綿紡機や銃器を買い付けるほか、“国際的山師”と称されるモンブラン伯(漢名=白山伯)と親交を結んだ。フランスとベルギー両国に国籍を持つこの男は貴族で大風呂敷で知られているが、五代と意気投合する。薩摩領内の資源開発に関して協定を結び、貿易商社の設立を決める。 薩摩藩内の鉱山を開き、鉄器、武器、絹、綿、茶、ろう、たばこなどの工場を作り、これに必要なものは欧州から輸入する。また別に琉球や大島で3つの港を開くほか、大阪、京都間に鉄道を通すなど雄大な構想が描かれていた。 このモンブラン・五代両山師による大プロジェクトは途中で挫折するが、その後の五代の事業展開に大きな推進力となる。『財界物故傑物伝』(実業之世界社編)にはこう記されている。 「明治2(1869)年民間に下るやにせ金流通の余弊に鑑み、要路にある大久保利通に建白し、みずから金銀分析所を今宮に設けて、全力を傾け各藩のにせ金を買い集め、分析してわが国貨幣の統一を図り、明治3年には堺紡績(のちの岸和田紡績)を興した。同6(1873)年には大阪に弘成館鉱業所を置き、外人技師を招いて、まず福島県下の半田鉱山を手始めに、大和の天和銅山、越後の赤倉銅山はじめ全国十数カ所の金銀銅山の開発に当たった」 五代の鉱山開発熱はヒートアップし、数年間で全国15カ所に及んだ。かつてモンブランと交わした開発協定でも鉱山開発は大きな柱となっていたが、これを全国展開した。ライバル岩崎弥太郎が海上王と呼ばれるのに対し、五代は鉱山大王と称される。中でも半田鉱山は佐渡金山、生野銀山と並んで三大鉱山と呼ばれた。当時最新の洋式設備で、後年、三井、三菱、古河など諸財閥の鉱山経営の手本となる。=敬称略 【連載】投資家の美学<市場経済研究所・代表取締役 鍋島高明(なべしま・たかはる)> 五代友厚(1835-1885)の横顔 天保6年鹿児島県出身、安政4年藩の選抜で長崎留学、文久3年薩英戦争で捕虜となる。慶応元年欧州大陸視察、明治7年半田鉱山を興す。同9年堂島米会所を再興、同11年大阪株式取引所を創立する一方、大阪商工会議所を設立、初代会頭、同14年関西貿易社を創設、総監となる。この年北海道官有物払い下げ事件が起こる。同15年阪堺鉄道を創立、同18年9月25日築地の別邸で死去。