「妹の屍の前にぽつんと座っていた」 6歳の時に沖縄戦で戦争孤児になった男性 慰霊の日に願うこと(#あなたの623)(1)
沖縄戦から79年。 遺族や県民ひとりひとりは毎年慰霊の日をどう過ごしているのか。 シリーズ「#あなたの623」、初回は戦争孤児として戦後を生き抜いてきた男性の話です。幼くして家族を失い、戦後を生き抜いてきた男性が今、思うこととは。 【写真を見る】「妹の屍の前にぽつんと座っていた」 6歳の時に沖縄戦で戦争孤児になった男性 慰霊の日に願うこと(#あなたの623)(1) 大湾近常さん 「僕の父親です、近六。これがお母さんでカミ。そしてこれが兄貴で長男、定男。 次男、良雄。これが妹のトシ子」 読谷村渡具知の集落に立つ慰霊碑。家族5人の名前が刻まれています。 大湾近常さん 「(当時)6歳だから、もう本当に断片的なことしか分からんわけ。ただ、家族が死んでいく、その場面に立ち会ったことだけは不思議でね(覚えている)」 大湾近常さん、84歳。 沖縄戦で、両親と3人のきょうだいを全員、目の前で失いました。 渡具知集落の人々の戦争体験をまとめた渡具知誌。大湾さんは事務局長として、本の編さんに携わりました。そこには大湾さんの体験もつづられています。 「父は息絶えた。時が経つにつれて死臭をはなち、死体はむくれていく。その側に僕は座っている。定男兄も座っている。・・・」 本島北部へと避難する途中、十分な食べ物もないなか、父親が亡くなりました。大湾さんたちきょうだいはその後、アメリカ兵に保護され野戦病院に運ばれますが、そこでも飢えと病で、次々と兄、母親、妹を亡くします。 大湾さんは特に、妹の死に深い責任を感じています。 大湾近常さん 「お母が(亡くなって)いなくなったもんだから、どうしても、お母がいる場所を訪ねていってるつもりでしょうね。お母さん、お母さんって。だから2人で、そこ(野戦病院)の周りをぐるぐる回っている感じ」 (渡具知誌) 「妹は『お母、お母』と泣きながら母を探している」「僕に手を引かれるままに歩いたが小さい体は限界に来ていた」「急性肺炎になったのであろう。息は荒くなり、やがてうめき声になり妹は死んでいった。その屍の前にぼくはポツンと座っていた」 大湾近常さん 「妹は4歳だからね」「自分としても妹になんて言っていいか分からないくらい、後悔かな、後悔の念がありますね」 大湾さんだけでなく、沖縄戦では多くの子どもが孤児となりました。その数は3000人とも言われていますが、実態はよく分かっていません。