「妹の屍の前にぽつんと座っていた」 6歳の時に沖縄戦で戦争孤児になった男性 慰霊の日に願うこと(#あなたの623)(1)
沖縄の戦争孤児に詳しい 平井美津子教諭 「自分は奥に入っていたけれど、ガマの手前にいた母親と弟が、爆弾が炸裂して、一瞬のうちに自分の目の前で肉片になっていった」 「やんばるに疎開して親子が離れ離れになって、自分はやんばるで何とか生き残ったけれども、親はどこで死んだかわからない」 大阪で中学校の教諭を務める平井美津子さん。 生徒らに沖縄戦の実相を伝えるため、戦争孤児への聞き取り調査などを行い、本にまとめました。 沖縄の戦争孤児に詳しい 平井美津子教諭 「一人ぼっちになって、大人の後ろをとぼとぼ歩いても誰も助けてくれなかった。逆に、しっしっと追い払われて」 「一人ぼっちになったことだけじゃなくて、誰も自分をかまってくれなかったことが悲しかったっていうね。そんな孤児の方もいてて、孤児って本当に一通りじゃないなと」 また、多くの孤児が親戚などに引き取られましたが、その生活は厳しいものだったといいます。 沖縄の戦争孤児に詳しい 平井美津子教諭 「女の子ならば、下働き、お手伝いさんみたいなことをさせられる。男の子も、その家が農家ならば、農家の下男みたいな扱い、商売をしていたらその商売先で、本当に酷使されるというように、労働力として扱われたという経験を語る孤児の方が結構いらっしゃいますね」 沖縄戦で両親ときょうだいを亡くし、孤児となった大湾近常さん。 引き取って育ててくれたのは父親の姉、大湾さんにとって伯母にあたる人でした。「オホンマー(伯母)」が母親代わりだったと言います。 大湾近常さん 「オホンマー(伯母)は明治24年生まれだから、学校もその時は行ってないみたい、字も書けないし」「だから子どもたちにも自分にも学校は行きなさいと」 引き取られた孤児の多くが、ほとんど学校にも行けず働きづめだったのに対し、叔母は自らの子どもと分け隔てなく接し、学校にも通わせてくれました。 (渡久地誌) 「オホンマー(伯母)は僕を宝物のように育ててくれた」 「54歳から92歳の38年間、僕を母以上の愛情で育ててくれてほんとうにありがとう」