<飛躍!今年こそ・健大高崎2021センバツ>第2部/4 後援会長・倉持純晃さん/OB会長・倉持雄太さん /群馬
◇「寄せ集め」から強豪校へ 同好会が始まり、今もエール 後援会長・倉持純晃さん(57)/OB会長・倉持雄太さん(34) 2011年夏以降、春夏通算6度の甲子園に出場し、大会が中止された20年センバツにも選出された健大高崎。今やプロ選手を輩出する押しも押されもせぬ強豪校だが、意外にも野球部の歴史は浅い。前身の群馬女子短大付属高から校名変更して共学となった01年、現OB会長の倉持雄太さん(34)が立ち上げた同好会がその始まりだ。しかし、当時はほとんどが野球をしたことがない生徒でつくる「寄せ集めチーム」だった。 「小学校から野球をしてきたのに、高校では何をすればいいんだろう」。倉持さんは01年に入学した時の心境をそう振り返る。共学になったばかりの同校には女子校の雰囲気が残り、野球部などはあるはずもなかった。 どうしても野球がしたかった倉持さんは40人いた男子生徒に「野球部を作らないか」と声をかけ、20人をかき集めて同好会を作った。しかし、与えられたのは外野までのスペースが取れない石や雑草だらけのグラウンド。それでも、「ここから頑張ろう」と気持ちを奮い立たせた。 倉持さんの挑戦に加勢したのは、父純晃さん(57)だった。純晃さんは少年野球をしていた頃から息子を積極的に応援しており、「いわゆる“野球部の親”たるものを知っているのは私だけだったので」と振り返る。打撃練習用のネットを自作したり、時にはノックをしたりもした。 転機となったのは02年。前橋商出身で、甲子園出場歴もある青柳博文監督が高校時代の恩師の紹介で健大高崎に赴任し、野球部が本格始動した。 だが、道のりは平たんではなかった。初心者が多数を占め、練習には緊張感がなかった。青柳監督の厳しい指導に耐えかねて、部を離れる者もいた。ある時には選手のほとんどが練習をボイコットし、倉持さんと1年生部員1人、青柳監督の3人でノックなどをした日もあった。 倉持さんは父に「遊びの野球はつまらない」と退部の意思を伝えたこともあったが、「最後までやっていれば必ず良いことがある」と諭された。 その言葉通り、公式戦初勝利は劇的な展開となった。2年生秋の県大会1回戦で大泉にコールド勝ち。参考記録ではあったが、投手の雄太さんは1人の走者も出さない完全試合を達成した。「多くのメンバーが去る中、残ってくれたメンバーもいた。仲間や支えてくれた人への感謝でいっぱいだった」。この試合後、純晃さんも「これからチームは強くなる」と確信した。 創部メンバーの最後の夏は、県大会の初戦で敗退した。この時、青柳監督は目に涙を浮かべながら、チームの飛躍を誓った。「お前らのお陰で、貴重な経験ができた。これから絶対に部を強くする」 その後、06年秋に関東大会初出場、11年夏に甲子園初出場と、青柳監督は見事に有言実行を果たした。 倉持さんは今、健大高崎で事務員を務めている。純晃さんも野球部の後援会長として、かつてと変わらない支援を続ける。倉持さんはコロナ禍の中で試合に臨む後輩に静かにエールを送る。「無事に大会が開催されることに感謝して、思う存分破壊力を見せてほしい」【川地隆史】=つづく