リペア・リセールで循環する、京都「ミッタン」の「過去を肯定し続ける」服作り
原料は綿、麻、毛など天然素材が中心で、素材の持つ機能を生かす。紡績、染色、編立、縫製はほぼ日本で、一部染色や手織りは海外で行っている。遠州、播州、尾州など日本各地の機械織りの生地やインドやラオスの手織りを使用し、可能な限り機場を訪れ素材開発にも取り組む。サプライヤーの選定は、従業員が法的に守られているか、書面で契約書を交わす。「一方的に聞こえるかもしれないが、お互い契約を守ってないことが分かれば契約を解消することができる」。
「搾取工場」と「マルジェラ」、学生時代に影響を受けたもの
三谷が学生時代を過ごしたのは1990年代~2000年代初頭。「90年代後半に『ナイキ(NIKE)』や『ギャップ(GAP)』のスウェットショップ(搾取工場)の問題や、(カナダのジャーナリスト)ナオミ・クラインの『ブランドなんかいらない』や(カナダのバンクーバー拠点のアドバスターズ・メディア財団が発行する雑誌)『アドバスターズ』が話題になり影響を受けた。無意識のうちに消費行動を促されているのではないかという考えや、必要ではないものを購入させることでその裏には虐げられている人がいることを認識した」と振り返る。一方、90年代はデザイナーズブランドに勢いがある時代でもあった。「99年に京都国立近代美術館で開催された『身体の夢 ファッションOR見えないコルセット』展でマルタン・マルジェラ(Martin Margiela)による野外インスタレーションを見て、この道に進むと決めた。しかし、同じ頃、アパレル産業では搾取工場の問題などの課題も浮かび上がっていた。憧れだけで飛び込めば、意図せず負の面に自分も加担もしかねない。自分で判断しないとアパレルは危うい世界だと気付かされた」。
ブランド設立は大阪だった。「モードを提案するなら東京がいいが、そうでないなら東京である必然性がなかった。産地も関西の方がアクセスしやすい」。たまたま物件が見つかったタイミングで拠点を京都に移した。