なぜ稲盛和夫は「経営の神様」と呼ばれるようになったのか…稲盛氏が「名刺を忘れた秘書」にかけた意外なひと言
■“稲盛式”を形だけ真似しても意味がない また、「フィロソフィが言葉遊びになってはいけない」「フィロソフィを方便で使ってはならない」と注意をしています。なぜなら、フィロソフィを「わが行いにせずばかいなし」なのであり、「社内にフィロソフィへの不信感が少しでもあれば、経営はうまくいかない」からです。 稲盛さんから学んだ経営を実践しようとして、社内でフィロソフィを作り、それを全社員に伝え、毎日唱和するなどして共有に努めている企業もたくさんあると思います。 しかし、その中にはトップがフィロソフィを語っていても、本気で実践しようとしていないケースもあるかもしれません。つまり、空念仏になり、自分を律していないのです。これでは価値はありません。 また、「このフィロソフィはこんな解釈もできる」と評論家のように言葉遊びをしたり、「感謝する心」や「素直な心が大事だ」と説明するときに自分に「感謝」をするように仕向けたり、自分の指示を文句も言わずに従うことが「素直」だと方便で使うケースもあるかもしれません。 それではいくら素晴らしい経営理念を掲げ、フィロソフィを作ったとしても、社内にはフィロソフィへの不信感が生まれ、経営はうまくいかなくなると稲盛さんは指摘しているのです。 ■自分を律せなければ、他人を律せない 繰り返し説明しているように、フィロソフィとは社員が幸せな人生を送るための基本的な考え方です。 それは人間として「やっていいこと、悪いこと」を基準とした、たとえば、「嘘をつくな」「正直であれ」「人のために役立ちなさい」「一生懸命努力しなさい」「弱いものをいじめるな」「欲張るな」という初歩的な道徳律のようなものです。 つまり、誰が見ても分かる、普遍的に正しいことなのです。だからこそ、まずは経営者自身がフィロソフィで自分を律することが不可欠になるのです。 残念ながら、最近の政治家や企業不祥事のニュースを聞くと、優秀で博識で弁が立っても、胆識のない、自分を律せないリーダーが増えているように感じられます。 ただ、それを他人ごとにするのではなく、稲盛さんが言うように「自分を律せないのに、他人を律せるのか?」と自問自答を繰り返し、せっかく身につけた哲学やフィロソフィを「わが行いにする」ことがリーダーには求められているのではないでしょうか。