バブルの証人が語る「昭和のディスコが私たちに教えてくれたこと」
昭和ブームが長く続いていますが、閉塞感にあふれる現代から見ると、昭和の後半は経済も右肩上がりで人々はイケイケ。過剰なエネルギーに満ちた昭和の元気良さが輝いて見えるのも必然かと。ディスコという時代のあだ花から見た昭和を振り返ります。
「ふてほど」の愛称で親しまれたTVドラマ『不適切にもほどがある』(TBS)が最終回を迎えてしまい、一抹の寂しさを感じている方も多いのでは。ドラマではくるくるドライヤーや、ぺったんこにつぶされた革かばん、当時の渋谷を席巻していた「セーラーズ」(ドラマ内では「セーヤーズ」)のトレーナーなど、往時を思わせるグッズや場所が次々と登場し、昭和への郷愁を誘いました。 そんな折、ちょっと違和感を残したのは第5話で登場した「マハラジャ」のシーンです。ミラーボール、ボディコンのワンピ、イケメン風の黒服たち、そしてあの懐かしのVIPルーム……。おっと、“あの懐かしの”なんて知ってる風に書きましたが、筆者は昭和40年代生まれの東京育ちではあるものの、イケてないカーストで過ごしていたため、本当に盛り上がっていた昭和時代のマハラジャへは数えるほどしか行ったことがありません。それでも、ドラマの中の「マハラジャ」はペラペラの作り物のようにしか見えず、興ざめでした。「マハラジャ」って、もっと暗くて、もっとゴージャス。もっと重厚な音だったし、もっと浮ついて欲望にまみれた男女がひしめく、熱気に満ちた空間だったのになぁ……。 そこで、昭和のディスコは実際どうだったんだろう? と当時を知る識者のおふたりにお話を聞きました。甘糟りり子さん、渡邉弘幸さん、昭和のディスコの話、聞かせてください~!
まずはおふたりのご紹介から。甘糟りり子さんは「1990年の私に顔パスで入れないディスコはなかった」という衝撃的な帯文で知られる名著『バブル、盆に返らず』の著者である、まさにバブルの語り部。そして渡邉弘幸さんは博報堂の営業部長などを経て、トータルビューティサロン「uka(ウカ)」の代表取締役CEO。昭和という時代が終わった1989年1月に甘糟さんは24歳、渡邉さんは23歳ですから、まさに遊び盛りだったでしょうね。ちなみにお話を聞いた筆者は当時、19歳でした。