時代が創った国立代々木競技場、2度目の東京五輪はなぜうまく進まないのか
前代未聞のテンション構造である。 もちろん丹下の才能が遺憾なく発揮されたのだが、坪井善勝という構造家とそのスタッフの力も大きかった。巨大な吊り屋根は、風が吹けば大いに揺れ動く。上空に位置するコンクリートの柱と屋根を吊るワイヤーの接合部は、その動きによって破壊される恐れがある。試行錯誤の末、自転車のサドルのような部分を加え、この動きをズレと回転で吸収する設計とした。 また工事担当者の功績も大きかった。入札に集まった施工会社は、見たこともない図面に尻込みしたという。しかも工期は18ヶ月に限られ、遅延は絶対に許されない。IOCが(国際オリンピック委員会)心配し「おそらく間に合わない」と発言するほどであった。初日は落札できず、翌日になってから、大体育館は清水建設、小体育館は大林組が、損を覚悟で請け負った。実際のコストは落札価格をはるかに超えていたとも言われる。 突貫に次ぐ突貫工事だ。揺れ動く屋根に上がる職人たちも命がけである。彼らには、太平洋戦争で散った仲間や先輩たちに代わって戦後日本の復興に奉職するという気持ちもあったのではないか。零戦や戦艦大和をつくった大和魂と同様の職人魂が発揮されたのだ。 そして全日本が祈るような気持ちで見守る中、オリンピック開幕の1ヶ月ほど前にギリギリ完成した。まさに戦後復興の完遂を告げるモニュメントとして、日本建築界が総力を挙げて成し遂げたのである。
そして同時に、東海道新幹線、首都高速道路、東名高速道路の一部が開通するという驚くべき時代であった。国中が突貫工事。日本人は働きづめに働いた。空を見上げた高校生が成長期であったように、日本そのものが成長期であった。 この戦後の復興成長過程で培われた、大和魂に代わる「ものづくり魂」が、やがて、ラジオ、テレビ、その他の電気製品、自動車、オートバイ、カメラ、フィルム、時計など、すべての工業製品において他国に抜きん出た品質を実現する「日本技術圧勝時代」につながるのである。