時代が創った国立代々木競技場、2度目の東京五輪はなぜうまく進まないのか
2020年東京五輪は競技会場見直しなど、課題山積の中、開催時期が残り3年と迫ってきました。かつて1964年の東京五輪では、どのように大会を支えた名建造物が誕生したのでしょう。建築家の若山滋氏(名古屋工業大学名誉教授)が、「国立代々木競技場」の歴史と時代背景について執筆しました。 ---------- よく晴れ上がったある秋の日、一人の高校生が、品川区の学校を規則に反して抜け出し、何気なく空を見上げたとき、いくつかの飛行機が旋回するのが目に入った。 小編隊が飛び去ったあと、その航跡には、鮮やかな色彩を保つ五輪のマークが浮かび上がった。東京オリンピックの開幕である。そして、聖人のような風貌のアベベがマラソンで初めての五輪連覇を成し遂げ、鬼と呼ばれた監督率いる東洋の魔女が回転レシーブを駆使して宿敵ロシア(その時はソビエト)を破り、丹下健三が設計した代々木の屋内競技場の建築が話題となった。 次の年、高校生は大学に進み、建築家になることを決意した。
国立代々木競技場は、隣接する代々木公園、NHKとともに、戦前は帝国陸軍の練兵場で、戦後はアメリカ空軍家族の住宅地ワシントンハイツとなり、オリンピックを前に返還された土地に位置している。大小二つの体育館の組み合わせで、どちらも独特の「吊り(張力・テンション)構造」である。体育館など、内部に柱を建てたくない建築に使われる方法だが、並みの設計ではない。大体育館は二本、小体育館は一本の、巨大なコンクリートの柱から、太いワイヤーによって屋根全体が吊り上げられている。屋根は重力によって屋根全体が微妙なカーブを描き、しかも建築の形にひねりが加えられているから、一つとして同じ部分のない、きわめてダイナミックな造形となっている。 この建築に、世界のアスリートが感嘆の声を挙げた。丹下健三は国際オリンピック委員会(IOC)から特別功労者として表彰され、日本を代表する建築家としての地位を確立した。当時の日本では、まだ「建築家」という言葉が「大工さんとどう違うのか」と問われるほど馴染みが薄かったのだ。この建築を見て、建築家を志した若者は多かったと思われる。