江戸時代の武士が利用した「介護休暇」 老親介護をバックアップした驚きの中身
現在、日本人の平均寿命は80代ですが、江戸時代の平均寿命は30代くらいだったと言われています。しかし、全ての日本人が短命だったわけではありません。幼少期に亡くなる人の多さが全体の平均を下げているものの、実際には90歳を超える高齢者が一定数いたこともわかっています。つまり、高齢者介護の問題と直面していたはずです。 医療が未発達で、現在のような介護保険サービスも整っていない時代に、日本人はどのように介護に取り組んだのでしょうか?
日本では団塊世代の全人口が75歳以上(後期高齢者)となる、いわゆる「2025年問題」が大きな注目を集めています。 書籍『武士の介護休暇』では、江戸時代を中心に、様々な資料を駆使して日本の介護をめぐる長い歴史を解き明かします。そこから浮かび上がる、介護に奮闘した人々の姿と、意外な事実の数々――。介護の歴史を振り返ることで、きっと何かのヒントが見つかるはずです。 『武士の介護休暇』より、江戸時代の介護休暇制度である「看病断(かんびょうことわり)」について、一部抜粋、再構成してお届けします。
■武士が利用した「看病断」という介護休業制度 幕府は1742年(寛保2年)に、父母や妻子が病気の際には無条件で、祖父母・叔父伯母の場合はその内容次第により介護休業を認める制度を整備しており、この規定と前後し、多くの藩でも同様の制度が設けられています。こうした制度を幕府は「看病断(かんびょうことわり)」と呼んでいましたが、藩によって名称が異なり、例えば沼津藩では「看病引」と呼んでいました。他にも「看病願」「付添御願」「看病不参」などの名称が各藩の記録で確認されています。
この看病断の制度は、現代の育児・介護休業法に基づく「介護休暇」「介護休業制度」に該当するといって良いでしょう。ただし商人・職人に対して適用される制度ではなく、あくまで旗本・御家人、藩士を対象としたものです。 看病断制度の適用例を示す史料は各地に残っており、その中から丹波亀山藩(現在の京都府亀岡市付近)のケースをご紹介します。 江戸の文政期(19世紀初め頃)、丹波亀山藩は幕府から、京都で火事が発生したときの火消の役割を担う「京火消詰」の役目を他の数藩と共に任されていて、担当の藩士が京屋敷に赴任する必要がありました。1820年(文政3年)4月、丹波亀山藩士の「伊丹孫兵衛」がその役目を果たすべく京屋敷に詰めていたのですが、その現場の上役に対して「祖母が病気になり具合が良くないので、看病をするため火消詰の休業をしたい」と願い出ています。