「お前の彼女は誰とでも夜を共にする“あばずれ”」恋人は浮気性→第一志望の会社は内定取り消し…慶應卒のイケメン元証券マンが「強盗殺人犯」に堕落した理由(1953年の事件)
犯人男の人柄
正田は1929年(昭和4年)、6兄妹の末っ子(兄3人、姉2人)として大阪市で生まれた。父親はカリフォルニア大学出身の弁護士だったが、正田が生後5ヶ月のときに病死。 その後は、日本女子大卒だった母親が横浜市内の高校で体育教師として家計を支える。母親は金に執着し、銀行の貸金庫の鍵と印鑑を肌見放さず持ち歩いていた。6人の子供を我が身一つで育てなければならないという責任感ゆえの行動だったが、長兄はそんな姿を極端に嫌い、母親に手をあげたばかりか、弟や妹にも暴力を振るうようになり、それは正田にも及んだ。母や兄、姉は一切助けてくれない。ただ怯えて暮らすよりなかった日々で、正田は「大人は薄情で嘘つきでエゴイスト」と絶望、家出を思い立つほど悩み苦しむ。 それでも、両親の頭の良さは子供たちにも受け継がれ、兄3人はみな一流大学に進学。正田自身も旧制高等学校の受験に二度失敗した後、慶應義塾大学経済学部予科への入学を果たす。ちなみに、このころ正田一家は長兄から逃げるように、神奈川県藤沢市に居を構えていた次兄の家に移り住んでおり、正田の学費も次兄が負担した。 長身でハンサムな顔立ちの正田は女性にモテて、慶應に入って間もない1949年夏、1歳下でダンスホールで講師をしていた19歳女性A子と知り合い恋仲となる。2人は互いに夢中になり、やがて結婚を約束する間柄となるが、正田には気がかりなことがあった。
A子が自由奔放な性格で、自分以外の男性とも仲良く振る舞っていたのだ。この態度に正田は激しく嫉妬、痴話喧嘩を繰り返し、別れてはよりを戻す関係を続ける。それが原因の一つともなって、今まで真面目に過ごしていた学生生活が荒れ始め、麻雀店で稼いだ金をA子との遊興費に当てるように。 その事実を知った正田の母親は彼女が息子に悪影響を与えると思い込み、A子に「あなたが息子を堕落させたんだ」と一方的に叱責し、結婚にも猛反対した。
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