〈選択的夫婦別姓〉嫁ぎ先でのお酌、配膳、セクハラに打ちひしがれた女性が「すべての元凶は望まない改姓にある」と考えるワケ
〈“人生の壁”をのりこえた女たち〉7
ライフステージの変化によって大きく変わることが多い女性の人生。2度の結婚で大きな人生の壁にぶち当たってしまった井田奈穂さんが、なぜ選択的夫婦別姓の法改正運動に取り組むようになったのか、その人生を追う。(前後編の前編) 【画像】「自分の名前ではない」と感じて気分が沈んだと話した井田奈穂さん
家父長制推しの家
奈良県生まれ埼玉県育ちの井田奈穂さんは、新聞社に勤める父親と、短大を卒業したばかりで専業主婦になった母親の間に、3人姉妹の次女として生まれた。 昭和後期の父親の多くがそうであったように、井田さんの父親も仕事が忙しく、ほとんど家にいなかった。 そのせいか、家事・育児にはまったくと言っていいほど関わらなかったが、何かを決めるときだけは“家長”として判断を下していた。 「私たち姉妹は、ほぼほぼ母に育てられた感じです。母はとても学校の成績がよかったのですが、祖母から『勉強ができる女は可愛がってもらわれへん』と言われて育ち、まったく本人の希望と違う短大の家政科に入学させられて、卒業と同時に親が決めた人と結婚させられました。 一方、母の兄は東京の四大へ進学。自己実現が叶わずに、母はものすごく苦しんだみたいです」 その反動からか、幼い頃から井田さんたち姉妹に対しては、母親は相反する2つのことを押しつけた。 「資格を取ってバリバリ働いて、社会で活躍する女性になりなさい」と、「良妻賢母になりなさい」という2つだ。 「母が親から押し付けられた良妻賢母像が『家父長制』と名のつくものに根ざしていることに、ものすごく後になって気がつきました。 母は、子どもを3人産んでから自立を目指し、教職につきましたが、父が家事・育児を一切分担しなかったため挫折し、退職せざるを得ませんでした。 私たちには、母親自身がなれなかった『社会で活躍する女性』になってもらいたかったけれど、幼い頃から親に刷り込まれてきた『いい娘像』『良妻賢母像』も捨てられなかったのです。 教育ママになり、塾の帰りに尾行し、私が男の子と話していると『不純異性交遊だ!』と言って、塾の先生や近所の人にまで監視を頼むなど、とにかく過干渉でした」