NBA伝説の名選手:マーク・プライス フィジカルな守備全盛時代にシュート力とゲームメイクで地位を築いたポイントガード
NBAレジェンズ連載32:マーク・プライス プロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。その輝きは、時を超えても色褪せることはない。世界中の人々の記憶に残るケイジャーたちの軌跡を振り返る。 第32回は、フィジカルな守備、ジョーダン率いるシカゴ・ブルズの全盛時代に白人ガードとして存在感を発揮したマーク・プライスを紹介する。 過去の連載一覧はコチラ〉〉〉 【転機となった大学時代のポジション転向】 1980年代後半から1990年代にかけて、クリーブランド・キャバリアーズの司令塔として活躍したマーク・プライスは、シュート力とゲームメイクのうまさを兼備していたポイントガードだった。現代のNBAと違い、激しいフィジカルコンタクトが当たり前の時代において、7シーズン連続で平均16得点以上、7アシスト以上も7度記録し、オールスターにも4度選ばれる活躍を見せた。 1964年にオクラホマ州バートルズビルで生まれたプライスは、父のデニーがオクラホマ大とフィリップス・66ersというプロチームでプレーした経歴の持ち主だった。プライスは4歳の時、ショットを打てるようにゴールを作ることをデニーに懇願。デニーは寝室のドアに小さなゴールをつける代わりに、ショットが決まるまで部屋から出られないという条件を突きつけた。プライスの母アンは、『シャーロット・マガジン』誌に掲載された記事のなかで、こうコメントしている。 「私は、デニーにとても腹を立てていた。そこでマークが(ショットを)打ったり泣いたり、泣いたり打ったり、打ったり泣いたりするのが聞こえていたけど、ついに泣き止んだ。彼は(ショットを打つことに)夢中になったのよ」 コーチとしてのキャリアを構築していたデニーは、1975年にNCAAのサム・ヒューストン・ステイト大の指揮官になった。家族でヒューストンに引っ越したが、当時のテキサス州はフットボールがバスケットボールよりも盛んで、デニーは子どもたちの育成環境が貧弱ということに不満を抱くようになっていく。プライスがその影響を受けてしまうのを避けたかったデニーは、サム・ヒューストン・ステイト大のヘッドコーチを辞任し、プライスのためにもともと働いていた石油業界の会社に就職したのである。 デニーのコーチングによって、プライスはエニド高のシニア(日本の高3)でバスケットボール選手としての才能が開花。抜群のシュート力とIQの高さを武器に活躍すると、オクラホマ州の年間最優秀選手に選ばれた。しかし、プライスが身体能力の高さに欠ける183cmの白人ガードということもあり、多くの大学は過小評価していた。 そんな状況のなか、ジョージア工科大のボビー・クレミンズコーチはシュート力、IQ、リーダーシップでプライスが優秀な選手になれる可能性があると見ていた。ジョージア工科大も不振からの脱却を図る再建モードだったこともあり、1年生の時から主力となったプライスは、平均20.3得点という大活躍で、アトランティック・コースト・カンファレンス(ACC)の新人王に選ばれる。 「私の最も厳しい年は、ポイントガードに転身した2年生の時で、多くのフラストレーションがあった。今まで特定のスタイルでプレーしていて、突然目隠しされたようにポジションを変えることへの対処は難しいものだ。 ただ、大変な年だったけど、神様は、私を気にかけていたんだと思う。いいシーズンを過ごせなかったのに、私はオールカンファレンスに選ばれたのだから」 プライスがこう語ったように、2年生のシーズン以降の平均得点は15~17点台に終わった。しかし、3年連続でオールACCファーストチーム、1985年にチーム史上初のACCトーナメント制覇に導いてのMVP、1986年のNCAAトーナメントでは3試合連続で20得点を記録してリージョナル(地区)のベスト5といった数々の功績を残した。4年間で通算2193点、3P成功率44%を記録し、ノースカロライナ大、デューク大といったNCAAを代表する強豪校がいるACCで活躍したプライスは、ジョージア工科大の歴史に残る選手となり、背番号25が永久欠番になった。