米村でんじろう「苦学生から科学の伝道師へ」
テレビ番組や全国各地のサイエンスショーなどで活躍中の米村でんじろう氏は、笑顔とともに披露する科学実験で多くの観客を魅了している。だが、その明るい印象とは裏腹に、若い頃に父親の急逝などから経済的に苦労した過去を持つ。逆境をいかに乗り越え、現在に至るのか、話を聞いた。 (『中央公論』2024年10月号より抜粋)
700回以上の実験を重ねて
私の科学教室やサイエンスショーの定番といえば、段ボールの穴から空気を打ち出す「空気砲」。大きな空気砲ならステージから一番後ろの席まで、50メートル以上空気の塊を飛ばし、その威力に客席は沸き立ちます。他にも、広い会場を一周りしてピタリと手元に返ってくる「ペーパーブーメラン」、静電気の威力を皆で手をつないで体験する「百人おどし」といった実験はショーに欠かせません。 ショーを始めた頃は、私が見せたい実験を見せるという気持ちが強く、「こんなこともできるよ、すごいだろう」という気持ちで、手を替え品を替えて行っていました。 しかし、複雑すぎるとその面白さを理解してもらえないことに気付いてからは、子供たちが楽しめる実験で構成するようになりました。ただし、子供たちに合わせすぎると深みがなくなってしまうので、一緒に来ている大人にも感心してもらえる実験を交えています。一時期は年間50ヵ所ほどサイエンスショーを開催していましたが、東日本大震災やコロナ禍の影響もあって少しずつ減少。今では年間30ヵ所ほどになりました。 その一方で、実験を見せる週に1度のローカル番組は、15年前からずっと続けています。1回に6、7週分の番組を撮るので、企画を考えるのは必死の思いです。何か思いついたらやってみるという試行錯誤を重ねています。これまで700以上の実験をしてきましたが、アイデアも実験としても良いと自信が持てるのは、10回のうちに1回、年間50回のうち数回程度だと思います。満足できるようなものはなかなかできません。