米村でんじろう「苦学生から科学の伝道師へ」
裕福でない家、貧しかった田舎
私は房総半島山間部の加茂村(現・千葉県市原市)で育ちました。 生活が楽だったわけでは決してないですが、貧しさを僻(ひが)むことも、貧しさに対してコンプレックスを持つこともほとんどありません。最近は食事もとれない子供がいると聞きますが、地域でお互いに助け合っていたので、そうした格差はありませんでした。 また、私の親は何かにつけて呑気で、大雑把。物事をあまり気にしないし、自分の子供に対しても期待していない。職業は何でも良いので、世間に迷惑を掛けずに食べていければいい。一角(ひとかど)の人になれとか、大学を出なければ駄目といった考えもありません。 できるだけ早く働くのが当たり前でしたから、中卒で就職する人も多かった。 しかし、私が成長するにつれて周囲の進学熱が高まり、「高校くらいは出ておいたほうがいい」という時代になった。私はその流れのままに地元の高校に進みました。入学した頃は高卒で就職する人も少なくなかったですが、卒業する頃になると、かなりの人が大学に進学するようになっていました。 そこで「大学に進学したい」と言うと、母も「行けるのなら行けば」という感じになりました。母は、兄たちと歳が離れていた末っ子の私を一番可愛がっていたので、甘かった。受験に失敗しても、「ああそう、また来年」と、あっさり受け止めてもらえました。本心でどう思っていたかはわかりませんが、当時の私には、そう言ってくれたことが救いでした。
理科が好きになったわけ
理科の実験が好きになったのも、時代の影響があったのかもしれません。1957年10月、ソ連が人類初の人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げに成功したことで、西側諸国の政府や社会は「ソ連に出し抜かれた」と衝撃を受けました。 アメリカはそれまでの教育を転換し、科学教育に力を入れて、10年以内に人間を月に送る目標を立てました。 日本もその影響を受けて、科学教育に力を入れるようになりました。理科教育に特別予算枠を設け、どの学校にもいろいろな実験機材が揃えられました。科学や科学技術がこれからの世界を変えていくと、誰もが信じていた時代です。理科の先生も熱心で、フナやカエルの解剖、工作もよくなさっていました。 育った自然環境も影響したと思います。当時はまだ外に明かりがなかったから、星がよく見えた。川にはドジョウやタニシ、ホタル、魚がいっぱいいた。カブトムシ、クワガタなど昆虫も溢れるほどいました。子供が興味を持つものが身の回りにたくさんあったわけです。 千葉県の山は高くなく、川もあまり広くない。親しみやすい自然環境の中、子供だけで毎日遊んでいた。そこで生まれた関心や疑問に理科は答えてくれました。実生活での体験と理科の勉強はつながっていた。私は、いつの間にか理科と実験が好きになっていました。