養老孟司86歳「死をタブー視して覆い隠し、人工物だらけの世界を拡張させている現代社会。不安を排除ではなく、同居することを覚えていくのが成熟」
解剖学者として、生と死に向き合ってきた養老孟司さん。自身の大病や愛猫との別れを経験した86歳のいま、日々感じていることとは(撮影=本社・奥西義和 構成=山田真理) 【写真】毎日がメメント・モリだったと語る養老さん * * * * * * * ◆不安や矛盾を受け入れるのが成熟 僕の生い立ちも含めていろいろ思い返すと、自分でも忘れていたような些末な事柄が人生を動かしてきたのかもしれない、と思うことが多いですね。初の自伝のタイトルは『なるようになる。』ですが、まさにそれが今の実感です。 人が希望や絶望に振り回されるのは、そういった葛藤が大事だったからじゃないでしょうか。長い歴史の中で、それがなかったら人間は滅びていたんだろうと思います。脳味噌ができて人間がものを考えるようになってからせいぜい100万年、生き物としてまだ不完全。生きることは、周囲の環境となんとか折り合いをつけ続けることだから、おそらく終わりはないんですよ。 周りから見れば安寧な老後を送っているのに、「病気になったらどうしよう」「お金が足りなくなるかも」と不安になるのは、現代人的なシミュレーションの病。もしそれが嫌なら、いちいち考えなきゃいいんですよ、そんなもの。 あるいは、あれこれ考えたくないなら、目先を変えるといいと思います。虫の乾燥でも犬や猫の面倒でもなんでもいいのですが、「気が変わること」があるといい。猫が粗相したとなれば、まず片づけなきゃならない。その間は老後の不安なんて、どこかへ飛んでいくでしょう。(笑) 一方で、不安や痛みを「よくないこと」と考える人がいるけれど、僕はそう思いません。僕は不安を感じない人と一緒に虫採りに行きたくない。不安を感じるのは、マイナスの情報というか警報をキャッチできているということ。不安を排除するのではなく、不安と同居することを覚えていくのが成熟なのです。
死についても同じことが言えるでしょうね。死は、生と矛盾したもの。死と折り合うことが、生きることだと思います。 生きている以上、ある程度の「覚悟」は必要なんですよ。比較的若いときから死を考えたことがないと、人は不安になるものです。どうせなら最悪の状況が起こっても大丈夫、と一度想定して覚悟を決めておくのも、不安と折り合う一つの方法ではないでしょうか。僕は「年をとったらあとは死ぬだけだ」と覚悟しているので、何の不安もないですね。 中世のキリスト教修道院の修道士たちの挨拶に、こんなものがあります。「メメント・モリ」と一方が言うと、「カルペ・ディエム」と返す。前者は「死を思え」、後者は「その日を摘め」。つまり「いつか必ず死ぬことを忘れるな」、そして「今日の花を摘むように、今日を十分に生きよ」と声をかけあうわけです。 西洋絵画では、頭蓋骨を美しい静物画の中へ描き入れたり、書斎の机に飾ったりしたものがある。ローマには4000体の骸骨を装飾に使った骸骨寺が目抜き通りにある。これも日常生活で、「死を思え」という意識の表れでしょう。 僕は、仕事でつねに遺体を間近に見てきましたから、毎日がメメント・モリだった。人が死ぬというのは、まぎれもなく自然なこと。それすらタブー視して覆い隠し、人工物だらけの世界をどんどん拡張させている現代社会のほうが心配です。
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