伊那谷楽園紀行(6) 霧の晴れる谷の中へ
なぜ伊那谷なのか。それも目的はなんなのか。理由は自分でもまったくわかっていなかった。きっと、同じようにバブル景気の浮かれ具合をテレビや雑誌だけで感じて。高校・大学とどこか不安な青春期を送り「失われた十年」とか、出口の見えない言葉が飛び交う中で、氷河期などといわれながら、なんとか職にありつき、未来にもやの晴れることがない平均的な同世代の人々。そんな彼らと同じように、ぼくも「どこかへ行きたい」とは思っていたけれども、その一歩を踏み出すこともできず。どこに行っても解決などはないのだと、諦観していたのだ。
2011年、3月11日の震災の日は、東京にいた。食あたりをして寝込んでいたので、当日の記憶は曖昧だ。本棚からはみ出していた本が、山のように崩れ落ちた以外には特に被害を受けることもなかった。 ただ、その後の混乱の中で、世界は確実に変わっていた。読者の嗜好の変化とともに、実話誌だとか娯楽系の、さほど原稿料は高くないけれども、数で稼げるような紙媒体の仕事は、徐々に依頼が減っていった。世の中は騒がしかったけれども、是が非でも現場に足を運んでみたくなるようなテーマを見いだすことはできなかった。とりわけ、多くの人が絶えず話題にして、TwitterやFacebookを彩っていた原発だとか、社会運動には、まったく共感することができなかった。 年が変わる頃になって、いよいよ貯金も尽きてきたことに不安を感じるようになった。それでも、取材したり、なにかテーマを決めて文章を綴ったりする気にもなれなかった。それでは、生活もままならないと思い、アルバイトをしてみることにした。 いくつかの情報サイトを見て、郵便局で夜間の仕分け作業をすることにした。それを選んだのは、大学生の頃に同じアルバイトをしていたことがあったという単純な理由だけだった。既に遠い昔のことだけれども、仕事の内容はさほど変わっていないだろうと思ったのだ。 すぐに採用されて、都内の郵便局に配属された。郵便番号を読み取る区分機が仕分けた郵便物を、決められたカゴに放り込む。機械で区分できない大きさの封筒は手作業で仕分ける。そんな単純な作業を、夕方の6時から、翌朝8時まで休憩を挟みながら繰り返す。 けっして辛い労働ではなかったけれども、人生のトンネルの出口が見つかる気配はどこにもなかった。大学生の時と同じアルバイトを選んだのは、どこかで20代の時に持っていたような気持ちを取り戻したいという願望があったのだと思う。 時代は暗かったけれども、同年代の誰もが平等に暗くて、「なるようにはなるさ」という気楽さがあった。気楽さの向こうには、いつかは人生の見通しが明るくなるという予感もあった。そんな気持ちを取り戻せるかと思ったけれども、取り戻すことなどできなかった。だから、そこで受け取った幾ばくかのアルバイト代を使って、どこかへいってみようと思った。そう考えた時に、伊那谷にいこうと思った理由は、別になかった。