「必要なものは笑顔だった」生まれつき左腕肘先がないパラ女子砲丸投げ4位・齋藤由希子選手は避難所生活で決意 笑顔のはずがパリパラリンピックで思わず涙を流した理由【ヒーローインタビュー】
あの日の津波は自宅も飲み込み生活の全てをかえました。 半年間の避難所暮らしは、間近に控えたインターハイ予選にも影響を及ぼしました。 ■震災を機に決意、「あえて笑顔でいる」 当時避難していた気仙沼総合体育館の駐車場で話を聞きました。 2019年の齋藤由希子選手: 「傾斜がついているじゃないですか ちょうど。車に人が乗ってないところを見つけて、奥のほうであの傾斜に向かって投げていました。全国大会を目指す中で、ほかの選手はトレーニングできる環境かもしれないと考えるのがつらかった」 避難所生活で体重と筋力が落ち、全国大会出場を逃しましたが、震災を機にある決意をするきっかけとなりました。 齋藤由希子選手: 「笑顔でいちゃいけないタイミングって震災の時くらいだけだった。 震災の時も大変な思いをしていても、人々に必要なのものは笑顔だった。 “あえて笑顔でいる”ことで周りもハッピーになってくれたらうれしい。笑顔を大事にしていきたいと決めたのは震災前後」 仙台大進学後はアスリートとして成長。当時の世界記録を塗り替え、パラリンピック出場も夢ではなくなりました。 ■試練が…、やり投げに転向するも しかし、彼女のクラスは過去3大会、種目から外れ、一時はやり投げに転向してまで東京オリンピック™を目指しますが、ケガに悩まされ、夢の舞台には立てませんでした。 齋藤由希子選手: 「東京大会には出たいと思っていたし、それに出ることが競技人生の1番の目標だった。それが叶わなかった時に“もういいかな”って。もう十分痛い思いをして怪我をしながら頑張ったかなって。種目を変えてまで頑張ったかなって思えたのは正直な感想です」 折れかけた心に再び火を灯したのが、パリ大会での砲丸投げ復活の決定です。 ■「葛藤」育児と競技の両立に齋藤選手は… しかし、その知らせは長女を授かった時期とも重なり、育児と競技の両立に葛藤します。 齋藤由希子選手: 「自分は、本当に子ども1番で 専業主婦をやりたいくらい子どもが欲しかった。少しずつ競技場に出ていたが、当時は母乳で子育てをしていたので、ミルクの時間とかも気になるし 、時間的な部分では復帰を急ぎすぎたという思いも正直あった。