「安倍vs.石破」自民総裁選の仕組みと歴史 坂東太郎のよく分かる時事用語
●「2012年」からの変更点
複数の候補で争われた直近の総裁選は2012年9月で、有力5氏で戦いました。当時は国会議員票「198」(所属議員の合計)、党員・党友票「300」でした。1回目で石破氏が「党員・党友票」165票と安倍氏の87票を大差でリードし、国会議員票を加えても石破氏がトップでしたが過半数には達せず、「国会議員票のみ」の決選投票で安倍氏が逆転勝利を収めたのです。この結果を都道府県連あたりが「党員・党友票を軽視している」と批判、総裁公選規程を改正して今回の形に収まります。 改正前と改正後を比較すると、 ・1回目投票は党員・党友票「300」→国会議員数と同数(今回は「405」) ・決選投票は「国会議員のみ」→「都道府県票47」が加わる です。確かに重視されたようにみえます。 もっとも今回に限っては「重視とはいえない」との指摘もあります。前回は議員票198よりも多い300があてがわれていたからです。つまり数でいえば重視であっても率としては下がったと。決選投票の47票も今回は行われないので、関係なくなります。
●総裁「任期」の変遷
前述の通り、今回の総裁選から「任期3年、再選まで」から「任期3年、連続3選まで」に変更されました。2017年3月の党大会で正式決定しています。表向きの理由は、内外の課題解決に長期政権が必要な場合もあるというものでしたが、現実には2012年に就任した安倍総裁下での国政選挙が衆議院(12年と14年)、参議院(13年と16年)で4連勝したことが大きいと言わざるを得ません。現に「3選容認」論が出始めたのが、4勝目となった16年の参院選直後からでしたから。 1955(昭和30)年に結党された自民党は、旧自由党系と旧日本民主党系という保守2党の合同によって誕生しました。比較的まとまっていた旧自由党系に対して、旧日本民主党は自由党を率いていた吉田茂元首相への反発からまとまった部分が大きく、誕生時点で考え方や選挙区事情の異なる派閥が既に5つほど存在していたのです。派閥は領袖(親分)を総裁に押し上げようと切磋琢磨するため、総裁選は当初から重要な勝負所でした。 初代総裁の鳩山一郎首相選出以来、長らく任期は「2年、再選規定なし」。立候補制でもなく、自薦・他薦自由でした。したがって池田勇人総裁(3選)や佐藤栄作総裁(4選)といった多選総裁が現出したのです。 佐藤4選後の1971(昭和46)年に「3年、再選規定なし」へ変更。翌72年の総裁選から適用され田中角栄総裁が登場しました。ここから三木武夫、大平正芳、福田赳夫の各氏を加えた有力4領袖によるバトル「三角大福」時代が到来したのです。 角栄氏は首相在任中に「政治とカネ」「金脈」問題でつまずいて退陣。当時の副総裁による「椎名裁定」という変則的な形で、三木武夫氏が次の総裁に就任した1974年から「3年、再選まで」に変わります。三木総裁が最終的に総選挙敗北の責任をとって辞任した後の76年、福田氏が両院議員総会の話し合いで総裁に選出されました。「三角大福」のうち三木氏は辞任した本人で、角栄氏はロッキード事件で同年逮捕されていて身動きが取れず、「大福」のどちらになるのか注目されます。結局、「福田総裁、大平幹事長」で折り合いました。任期は3年から2年へ短縮。大平氏は2年後に政権を福田氏から譲られると解釈したのです。