誰かの背中をポンと押せる物語をーー小さな田舎町の主婦が、「物書き」になるまで
『52ヘルツのクジラたち』の舞台は海に面した小さな町。過去に虐待された体験を持つ女性が、隠遁するかのように暮らすその町で、一人の虐待児童と出会う。しだいに心を通わせる孤独な二人、やがて明らかになっていく登場人物たちの過去――。過疎化の進んだ田舎町を背景に、現在と過去とがリズミカルに入れ替わり、クライマックスシーンでは、読者もその場に佇んでいるかのような気分にさせられる。上質な組曲を聴き終えたような読後には、長い余韻が残った。
「あんたんとこの孫、男と一緒に車に乗っとったが」
5年前に「女による女のためのR-18文学賞」大賞を受賞し、作家としてのキャリアをスタートさせた町田。生まれも育ちも福岡県北九州市に隣接する小さな町。ずっと地元暮らしを続けている。 「実家も徒歩圏内で。子どもの頃からずっとこの土地に住んでます。東京や大阪、福岡にも住んだことはありません。結局行けないままこの年になって、もう都会で暮らすなんて考えられなくなりましたね。だから都会を舞台にしたオシャレな小説には憧れというか、コンプレックスがあります(笑)」 地元からは1時間半ほどドライブすると、別府に着く。 『52ヘルツ~』で描いたのも、瀬戸内海に沿った大分県の田舎町。トタンが錆びて赤茶けた家がぽつりぽつりとたたずむ、静かで寂しい街並みだ。町田にとって馴染み深い風景と、幼い頃から肌で感じてきた空気感をストーリーに落とし込んだ。
「特に若い頃は、年配者からの“監視の視線”のようなものを感じてきました。車種を覚えられていて、どこにいても親に筒抜け。バイト先の男の子を送っただけなのに、『あんたんとこの孫、男と一緒に車に乗っとったが』って私の祖母に連絡が入ったり。髪の色をちょっと明るくするだけで『グレた』。こういう田舎ならではのネットワークの強さ、それに対する窮屈な気持ちというのは、実体験としてあります」
理容師になってみたものの、職を転々とし主婦へ
町田が作家になるまでの道のりは、出版業界上がりのいわゆる定番コースとは異なる。 氷室冴子に憧れ、本を読むのが大好きだった少女時代、作家を夢見たことはあったが、高校を卒業後に選んだ職業は、理容師だった。 「これは九州の発想なのかもしれませんけど。両親からは、『手に職をつけていれば、離婚しても女ひとりで生きていけるから、看護師か美容師になりなさい』と言われて。血を見るのが怖いので、仕方なく理美容学校に進みました。で、美容師は、本当にオシャレじゃないとなれないから無理だろう、理容師ならば職人っぽいから私に合っているかな……と、理容師の道へ。当時はふわふわして生きていたので(笑)、なんとなく、そういう感じで就職をしました」