日本の饅頭の元祖、塩瀬総本家の会長・川島英子「信長、秀吉、家康たちから愛された、饅頭ひとすじの老舗。暖簾を守る100歳の思い」
◆母の読みが大当たり しかし1945年に終戦を迎えると、状況は一変。宮内省の御用も軍隊や宮家からの注文もすべてなくなりました。そして何より困ったのは、砂糖などの材料がまったく手に入らなくなったこと。 それで父は、終戦から2年ほどの間、菓子を作れなくなりました。 人工甘味料のサッカリンを使って商品を作らないかという誘いは山ほどあったのです。いろいろな業者さんがやってきて、「塩瀬」の看板で売れば何だって売れる、と口を揃えて。でも父は「まがい物は作らない」とすべて断ってしまった。 2年も収入のない状態が続いたのですから、母も苦労したのでしょうね。「お父さんは頑固だから」としきりにこぼしていました。 でも、父はそうやって塩瀬の暖簾を守り抜いた。作らずに待機することを選んだのだと、今ならわかります。
やがて、世の中は戦後の混乱から立ち直り始め、塩瀬も少しずつ盛り返していきました。そして50年には、現在本店のある築地明石町に拠点を移します。今思えば、塩瀬が戦後の苦境を乗り切ったのはあの時だったのかもしれません。 53年に父が亡くなり、母・渡辺よしが33代当主となりました。母が力を入れたのはブライダル市場。 戦地から戻ってきた息子が結婚するとなれば、結婚式をちゃんとやろう、引き出物は塩瀬のお饅頭にしよう、と考える親が増える、そんな読みが母にはあったのでしょう。 そしてこれが大当たり。結婚するカップルが増え、盛大な結婚式が好まれたのが母の時代でした。取引先は関東一円の神社、ホテルのほか、400以上の結婚式場。 あの頃の忙しさったらなかったですね。とくに大安の前日はとにかく大変。作っても作っても間に合わない。もうお式が始まっちゃうっていうのに、まだお饅頭を詰めている(笑)。 私自身はすでに結婚して2人の子育てに追われていましたが、忙しくなると母から電話で呼び出しがかかり、しょっちゅう工場へ行ってお手伝いする日々でした。 (構成=平林理恵、撮影=上田佳代子)
川島英子
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