「自分は何をすべきなのか」 日本航空石川、被災球児の涙と葛藤
自分は何をすべきなのか――。3月18日開幕の第96回選抜高校野球大会に出場する日本航空石川(石川県輪島市)の福森誠也投手(2年)は、能登半島地震が発生してから考え続けてきた。輪島市で被災し、一時は避難所に身を寄せてボランティア活動に参加した。悩んだ末に向かったのは、野球部の仲間たちが待つ避難先の山梨だった。 【写真特集】センバツ出場の知らせを受け喜ぶ選手たち ◇「ばあちゃんが下敷きになる」 1月26日、福森投手は系列校の日本航空高校(山梨県甲斐市)がある山梨キャンパスで、チームメートと並んでセンバツ出場校発表の瞬間を待っていた。学校名が読み上げられると、こみ上げるものを抑えられなかった。 「甲子園は小さい頃からの目標。名前が呼ばれた瞬間はすごくうれしかった。でも、思い出したくなかったけど、元日の記憶も少しよみがえった」。喜びだけではない涙だった。 元日の午後4時過ぎ、家族で訪れた輪島市の祖母・早瀬舞子さん(67)宅の廊下で激しい横揺れに襲われ、福森投手も尻もちをついた。「ばあちゃんが下敷きになる」。目の前の崩れた部屋にいた祖母を救出して背負い、靴も履かずに家を飛び出した。 命を守るために、家族と高台を目指した。孫を心配して背中から下ろすよう求める祖母を強い口調で制した。必死だった道中のことはあまり覚えていないが、あとで確認すると、石や粉々になったガラスの上を歩いた靴下がぼろぼろになっていた。 高台にたどり着き、気がつけば日が暮れかけていた。波が引き、底の岩があらわになった海が見えた。ただただ、恐ろしかった。 1月3日、祖母や家族らと石川県七尾市の避難所に身を寄せた。祖母の家、七尾市内の自宅とも住める状態ではなかった。それでも、父が運転する車で七尾市に戻った時に、やっとホッとできた。 「ああ、ここは安全だ」 七尾市も被害は大きかったが、原形を残した民家が輪島市内より多いように見えた。 避難所は大きなコミュニティーセンター。いつも見かけるスタッフは同じ人たちで、人手不足は容易に想像できた。「自分は高校生で、周りのお年寄りよりも動ける。何かできることはないか」。すぐにボランティアを申し出た。 それぞれの部屋をまわってごみを回収し、掃除を手伝った。炊き出しの準備に加わり、足の不自由なお年寄りに食事を配った。 SNS(ネット交流サービス)やテレビは、地震による深刻な被害を伝え続けていた。「いつまでこの生活が続くんだろう」。野球のことは到底考えられなかった。 学校は敷地内や周辺道路がひび割れ、通学できない状態になっていた。野球部の1、2年生計67人全員が生活する寮も損傷した。山梨で受け入れられる人数に限りがあり、センバツ出場の可能性があった野球部のうち、約半数が先に移ることになった。 ◇「センバツに出られたら頑張れよ」 1月9日、部員全員が参加するLINE(ライン)グループに、中村隆監督(39)が先行して山梨に入るメンバーを書き込んだ。2年生中心で、「福森」の名前もあった。昨秋まで公式戦でベンチ入りしたことはなかったが、持ち味とする直球の切れには成長の跡が見られた。戦力として期待されての招集だった。 中村監督からは「今は大変な状況だと思うけど、頑張ってきたのも分かる。山梨に行くか行かないかは、最後は自分で決めてほしい」と伝えられた。 福森投手は迷っていた。 「名前があったのはうれしかったけど、野球をする気持ちにはまだなれない」 一日に何度も余震があり、ずっと気が抜けなかった。自分がいなくなった後の避難所や家族のことも心配だった。 背中を押してくれたのは、避難所の人たちだった。たまたま手元にあった校名入りの野球部のパーカを着てボランティアをしていると、避難している人たちから「センバツに出られたら頑張れよ」とたびたび声をかけられた。 野球をきっかけに、震災前と変わらない会話ができた。「自分や航空のみんなが頑張っている姿を見せることで、少しでも元気になる人がいるのかもしれない」と思えた。家族も「誠也のやりたいようにやったらいい」と後押ししてくれた。 野球部は1月15日に第1陣が山梨に到着した。福森投手はその2日後に避難所を後にして、山梨に向かった。祖母は涙ながらに「頑張って」と送り出してくれた。 山梨では日本航空高校の教室で寝泊まりし、車で約30分離れた廃校になった高校のグラウンドで練習している。古里の様子は気がかりだが、家族からは「避難所の私たちの生活の心配はもう大丈夫。精いっぱい頑張って」と言われている。 「だから、今は野球を頑張りたい」 震災を経験して、野球への向き合い方も変わった。それまでは自分が試合に出たり、野球が上手になったりすることばかりを考えていた。「今は誰かのために、頑張っている姿を見せたい。それはプレッシャーでは全然なくて、もっと頑張る力になっている。チームのみんなも同じだと思う」 ◇「県外出身の選手が多いからこそ」 センバツでは、家族や避難所にいる地元の人たちに見せたい姿がある。 福森投手は、七尾市立の中学校の軟式野球部出身。「弱小だった」といい、近隣の県だけでなく、関東や関西の有望選手も門をたたく日本航空石川では珍しい存在だ。「石川県外出身の選手が多いからこそ、そこでしか味わえない経験ができる。挑戦したい」と進学した。 入学前は強豪校でうまくやっていけるのか周囲から心配されたが、持ち前の明るさで仲よくなった。寮で同部屋だったのは兵庫県出身の選手。「関西のノリや雰囲気が楽しかった」。寝食をともにする仲間たちの存在も、震災で傷ついた自分を支えてくれた。 センバツでベンチ入りできる選手は20人だけ。もちろん自分もその中に入りたいが、チームの姿も見てほしい。 「自分一人ではなく、日本航空石川として、スタンド、ベンチ、フィールドの全員が、全力で戦う姿を見せたい」 あの日を忘れることはない。自分に、野球にできることは何か。自問自答を続けながら、白球を追いかける。【石川裕士】