未曽有の大震災に大規模テロ「1995年」をカルチャーから振り返る
1995年の音楽
1990年代は、日本の音楽産業も栄華を極める。“CDバブル”と言われ、とにかく音楽が“売れる”時代だった。 音楽を聴くためのフォーマットが、レコードから、1982年に登場したCDへと移行。元号が昭和から平成に変わった1989年には、CDのアルバムセールスがレコードのLP盤を追い抜き、音楽市場は一気に拡大。CDシングルはミリオンセラー(100万枚以上の売り上げ)、ダブルミリオン(200万枚以上の売り上げ)も連発。1995年にはヒットシングルトップ50中、なんと28曲がミリオンセラーに。 また、CD がレコードを追い抜いた1988年は“J-POP”という令和の今に至るジャンルが誕生したことも忘れてはならない。 同年10月に洋楽専門ラジオ局としてスタートしたJ-WAVEが邦楽コーナーを立ち上げる際に、“J-POP”という呼び名を提唱。同局はピチカート・ファイヴ(小西康陽、野宮真貴)、ORIGINAL LOVE(田島貴男)、フリッパーズ・ギター(小山田圭吾、小沢健二)ら、後に“渋谷系”と呼ばれるアーティストを猛プッシュ。ニューウェーブやギターポップ、ネオアコ、ハウス、ヒップホップ、1960年~1970年代のソウルミュージックなど幅広いジャンルを取り込んだオシャレでハッピーなサウンドの“渋谷系”は、文字通り渋谷を中心としたタワレコほか外資系および中古レコード店の店員やクラブDJなどトレンドに敏感な層の目(耳?)に留まり、フレンチカジュアルの流行などファッションシーンにも大きく影響を与えた。 そして1990年代の音楽シーンを語る上で欠かせないのが、小室哲哉がプロデュースを手掛けた“小室ファミリー”。小室は、1994年のTM NETWORK終了と前後して観月ありさ、篠原涼子、trf、hitomiらを手がけ、“音楽プロデューサー”としての活動を本格化。1995年には、ダウンタウン・浜田雅功とのユニットH Jungle with tの「WOW WAR TONIGHT~時には起こせよムーヴメント」がダブルミリオンの大ヒット。また、ソロとして活動を始めた安室奈美恵のプロデュースをスタート、小室が立ち上げた新レーベルの第一弾アーティスト・華原朋美のデビュー、自らも参加する音楽ユニットglobeの結成…など数々のアーティストをプロデュースし音楽業界を席巻する。 小室の活躍は、1995年にデビューした“マイラバ”ことMy Llittle Lloverの一員で、サザンオールスターズやMr.Childrenを手がけた小林武史、GLAYやJUDY AND MARYをプロデュースした佐久間正英、後に国民的アイドルとなるモーニング娘。を生み出したつんく♂など、“音楽プロデューサー”がフィーチャーされるきっかけにもなった。こうしたプロデューサーたちが、洋楽的なエッセンスと歌謡曲やアイドルソング、テクノポップなど日本ならではの要素が混ざり合ったハイブリッドな音楽として“J-POP”を独自に発展させていくこととなる。 また、1990年代に“J-POP”が活気を帯びメガヒットが生まれるようになった背景の一つに、1980年代中盤から増え始めた“カラオケボックス”の普及が挙げられる。音楽が“聴く”ものから“歌う”ものへと変わったのだ。 人気ドラマの主題歌は軒並みミリオンヒット、先行きが見えづらい世の中で、KAN「愛は勝つ」(1990年)、ZARD「負けないで」(1993年)、岡本真夜「TOMORROW」(1995年)などの応援ソングもヒット。1980年代後半から続くバンドブームの流れで、X JAPAN、LUNA SEA、GLAY、L'Arc~en~Cielなど“ヴィジュアル系”と呼ばれるバンドも台頭。アニソン、日本語ラップといった、それまでアンダーグラウンドにいたアーティストが日の目を浴びるようになった時代でもあった。 奇しくも、時代は巡り当時のファッションが再び流行している令和の今、この30年の成功と失敗から学べるものがあるかもしれない。