箱根駅伝2025 3強崩しを狙う創価大・榎木監督 指導の原点は4年連続区間賞を獲得した中央大時代にあり
【「メンバーから外してください」と直訴】 2年時は当初、8区ではなく他区間の予定だったが、調子が上がらず、「もう一度8区を走って区間記録を狙ってはどうか」と大志田秀次コーチに提案された。 「最初の10㎞は1年時より遅かったのですが、10区に頼れる先輩(佐藤信之)がいた安心感から後半は攻めることができました。15年ぶりとなる区間記録更新(66分03秒)で、復路優勝に貢献できたのはうれしかったですね」 3年時、中大は3大駅伝すべてで優勝を狙えるだけのメンバーを擁していたが、出雲では3位に終わり、全日本では最終8区で早大の渡辺に松田が逆転され、チーム全体で悔しさを噛みしめた。箱根は絶対に獲るとチームが結束するなか、榎木は往路区間の4区をまかされた。 「当時、エース格の選手は2区、4区と決まっていました。2区が松田なら4区は私というのがチームの共通認識としてあったのです。レースは良い感じで入れたのですが、ラスト3㎞のダラダラした上りで少しタイムを落としてしまいました。もう少し耐えられたらよかったのですが、それでも3年連続で区間賞を獲れて、チームも総合優勝できた。思い出に残る箱根でした」 4年時の箱根は、チームとしては2連覇、個人では4年連続での区間賞がかかっていた。しかも、榎木は主将となり、春先の5000mと10000mで自己ベストを更新し、多くの人が4年連続の区間賞獲得に期待をふくらませた。ところが、5月から貧血と坐骨神経痛に悩まされるようになり、調子が急降下した。出雲はメンバー落ち、全日本は4区11位となり、他のレースでも箱根メンバー入りのボーダーライン上の選手に勝てなかった。 「まったく本来の走りができなかったですし、貧血も治らない。同期の松田は『頑張れ』と言ってくれたんですけど、頑張ってもどうにもならない。だから、箱根のエントリーが迫ってくるなかで、(木下澄雄)監督に『メンバーから外してください』と直訴しました。すると、監督から『お前がキャプテンだし、お前が入らないとこのチームは成立しない』と言われたんです。そうまで言われたら、これは箱根にしっかり合わせるしかないと覚悟を決めました」 意を決した榎木は、卒業後の入社が決まっていた旭化成の延岡合宿に2週間ほど参加し、貧血の治療も行なった。12月、甲佐10マイルロードレースに出場すると、なんとかうまくまとめて走れた。ようやく箱根を走れる"兆し"が見えた。 「とはいっても、区間賞などまったく意識できなかったですね。連覇がかかっていることのプレッシャーというよりも、正直、最終学年なのに、なぜこんなに体調が整わないのか、その歯がゆさでいっぱいでした。なんとかスタートラインに立つまでは仕上げられたのですが、たぶん天候が良ければ凡走に終わっていたと思います。当日はものすごい強風で、それに助けられました」